東京都の先輩経営者からのメッセージ
お客様の為にひとつひとつ丁寧に焼き上げるホットケーキ!座右の銘は継続!
塩谷 三夫 氏
カフェ1974年開業
ピノキオが開業したのは1974年、創業40年になる老舗喫茶店だ。塩谷氏が結婚した際、仲人をしてくれたビルオーナーから声をかけられ、夫婦で大山に開業したのがはじまりだ。
当初は、ごく一般的なスタイルで、サンドイッチやトースト・スパゲティなどを出していた。駅から遠く、けして立地が良いわけではないが、周辺に印刷会社が多かったことから、打ち合わせ利用も多く、またバブル景気の中、比較的順調な立ち上がりだったという。
「ただ、バブルがはじけて4~5年たった頃、お得意様だった会社が多く倒産していく中で、はじめて危機感を感じました。立地がらお客様の90%は近隣の常連客で新規の来店客はほぼいなかった。」そう塩谷氏は振り返る。
その当時偶然が重なり誕生したのが、今大人気メニューとなっている「ホットケーキ」だ。近くの小学校の子供達の希望で焼いてあげたのがきっかけだという。それが常連客の芸能関係者の目にとまりTVや雑誌などに紹介され徐々に知られるようになった。
『きっかけは偶然からだが、今の「ホットケーキ」を作りだす為には、試行錯誤を繰り返し失敗を重ねて今の形が出来ました。人に聞くのは簡単だが、それではやはり人真似になってしまう。真似はしたくなかった。そして単純なものほど難しい。』そう塩谷氏は語る。
他にはない個性的な分厚く美味しいホットケーキが評判になり、インターネットの口コミで爆発的な人気となった。今は北海道から沖縄まで週末になると遠方からの来店客も多い行列が出来る繁盛店となっている。
「すぐに結果を求める人が多いが、お客様の為に目の前のひとつひとつの仕事を丁寧に積み重ねる事、それを継続する事。」それが大事だという。今まで全てが順調だったわけではない。また開業から約10年間は無休で、夫婦2人で働き通した。その積み重ねと継続で今がある。
笑姜や(しょうがや)という店名のように、生姜焼きの本当の美味しさを伝え、お客様に笑顔になってもらいたい!
吉川 雅人 氏
定食屋2012年9月開業
飲食店の開業は、自分の地元で土地勘がある場所で考えていた。生姜焼き専門店というお店のコンセプトも当初からこの場所であれば当たるのではないかと考えていたという。
「飲食のプロではなかったので、素人でも取り組みやすく、一般のお客様にも幅広く受け入れられやすい料理と考えたときに「生姜焼き」と考えました。」「開業に選んだ江古田は、特急が止まる駅ではないが、乗降客が多いので魅力でした。生姜焼き専門店として学生が多いので、低価格でおなかいっぱい食べてもらえるようにしたいと考えました。」と吉川氏は開業当初を振り返る。
周辺に多くある大学に通う大学生と男性客を、ターゲットと考えた店の人気メニューの「生姜焼き定食」は、若者・男性が好む味付けにしようと様々な調理方法や味付けを試してみたという。「新しいメニューを作る時に心がけていることは、来て頂いているお客様の層に合っているかどうか。今は男性が好む味付けにしたい。とりわけ多くの男性客はマヨネーズをかけて食べるので、マヨネーズに合うかどうかは一つの判断基準です。」そう吉川氏は語る。
「お客様にお腹いっぱいになって頂きたい、原価をかければ美味しい物は出来るかもしれないが、この価格でこのクオリティなら満足だよね、と思ってもらうために工夫をしています。」店名の「笑姜や(しょうがや)」とは吉川氏の、そんなお客様に対する想いや生姜焼へのこだわりからつけられたという。
また、「飲食店を開業することがゴールじゃないです。開業してからのほうが大変で、それを継続していくこと。開業して満足したらうまくいかないですよ。自分もこの店を開業する前にまったく別業種で商売をしていたことがありましたが、少しうまくいくと勘違いしてしまうことがありました。」と今後は今の店舗を中心に、複数の店舗を出店していく計画だ。
お客様にはお腹いっぱい食べて、また元気に仕事してほしい!
鈴木瑞雄 / 鈴木昌樹 氏
洋食1985年開業
『むさしや』創業は明治18年、元々は旗本の末裔の家柄だったが明治の階級制度の改革により侍をやめてふかしイモや煎り豆などを売り、商売を始めたのがはじまりだという。
商売は形を変えながら屋号とともに代々受け継がれ、現在は四代目となっている。新橋で商売を始めたのは、今のビルの場所に家があり住んでいたので、ビルの竣工と共に現在の店舗で商売を始めたのだという。
当時から今と変わらない約3坪のスペースで当初は、ソフトクリームやハンバーガー・中華料理など色々な商売を試してきたという。現在の洋食を出し始めたきっかけは、3代目にあたる祖父の弟が東京會舘や帝国ホテルなどで洋食のコックをしていた関係もあり、その当時中華を売っていたメニューの中に、洋食メニューを取り入れたのがはじまりだという。そこから少しづつ洋食メニューが人気になり始め、ナポリタンの流行などもあり今の洋食店のスタイルになったのだとのことだ。
メニューで一番人気があるのが、こだわりの『ナポリタン』と『オムライス』だ。たっぷりとバターを使用し、来店する多くの男性客層に合わせて量が多く安い。
カウンター6席の店には、ランチの時間帯になると20人~30人の行列が出来る。来店客の8割~9割は新橋で働くサラリーマンだという。「うちに来るお客様は8割~9割が働く男性客。時間がない中、使えるお金も限られる中なるべく待たせない事、お客様の期待を裏切らないことを心がけています。そしてお腹いっぱい食べてまた元気に仕事をしてほしい。」そう5代目にあたる鈴木昌樹氏は語る。
5代目にあたる鈴木氏は、大手の飲食レストラン企業で経験を積んだ後、実家の店に戻り4代目と身内で店を経営している。「商売をするには小さく効率良く運営できるところが良い。大きい規模の店はどうしても無駄が出てしまう事が多い。」「まだ先の話だが、ビルの建て替えも決まっている。ただ移転しても今の店の規模やスタイルは変えずにこれからもやって行きたい。」と今後もお客様のために店と味を守っていくということだ。
自分の味を信じ、覚悟を持って貫く
早川 成次 氏
居酒屋1981年開業
店主の早川氏が22歳の頃、転機は訪れた。母親が働いていた近所の居酒屋が 閉店することになり、その物件を居抜きで取得し、店をやらないかと母親に相談された。
当時、イタリアン・フレンチ・スパニッシュなどの洋食の調理人として働いていた早川氏は、 「自分がこの店をやっていくんだ」という覚悟を決め、家族で経営をスタートした。
居抜き物件のため、業態は居酒屋。居酒屋で生き残るためには専門的な商品を入れたほうが良いと考え、当時仕入れルートがあった「もつ」をウリにすることにした。それから「もつ」について他店の調査をしたり、勉強をし、開業を迎えた。
「新鮮な旨いもつを食べさせたい」と、今でも市場に自ら仕入れに行っているほど、看板商品の「もつ」に対する思い入れは強い。これがこの店が長く愛されている大きな理由だろう。
しかし、今のように順調な状態がずっと続いていたわけではない。開業から数年後、世間が不況になると共に常連だった周辺の企業がどんどんと減っていってしまった。その当時、親と弟と店舗を運営していたが、自身の家族含め、「このままでは全員が食べていけない」と弟に店舗を任せて自ら店を離れて他店に働きに出た。その後、15年程経った頃に弟が病気になってしまう。それをきっかけに店に戻り今に至る。
現在の状況だけ見れば口コミサイトで高評価をもらい、30年以上地元で愛され続けている人気店だが、やはりその陰には一言で語りつくせない様々な出来事があったのだ。
早川氏いわく、「飲食限らず色々トラブルは起こる。しかしトラブルがあるから今がある。トラブルを楽しめるくらいにならないと。」と。この言葉の背景には、「飲食店を開業するからには”この店でやっていく”という覚悟を持ち、決断をすることだ。」という強い想いがある。「店が今繁盛していることは自分の信念を継続した結果だ。」と強面な表情で語る早川氏だが、すぐに「そんなカッコイイ言葉じゃないんだけどね」と顔がゆるむ。
口コミサイトの影響か、最近では遠方からのお客様や女性の一人客も増えた。そんな初めての人には少々入りにくい雰囲気の店だが、早川氏は自ら声をかけるようにしている。それでも、忙しい時にはあまり話せなくて申し訳ないと反省することもあるそうだ。そんなお客様想いの「料理人」だからこそ、口コミで評価が広がっていくのだろう。
街に根付く店作り、人創り
髙崎 丈 氏
居酒屋2014年開業
実は、2014年にこの店を開業する以前、2009年に地元福島でこの店の前身となる「JOE’SMAN」を開業している。
元々は東京にいた髙崎氏は、両親が経営する洋食店を継ぐつもりで地元に戻ったが、両親がまだ現役で店に立っていることもあり近くで自分の店を持つことにした。1店舗目の開業の際は、既に飲食店を経営している両親の知り合いなどが助けてくれたこともあり、あまり苦労を感じたことはなかった。
しかしその1年半後、あの東日本大震災が起こった。原発の5km圏内に居た髙崎氏及び両親は、それぞれ地元を離れた。
髙崎氏はその後神奈川県内の飲食店に就職。店長職に就き、店舗の数値管理を学びながら、自分の店を再度開く準備を整えていった。
現在の店舗を開業する際は、2度目の開店とはいえ、地元とは勝手が違った。法令に関するようなことになると、誰も自分の責任で発言をしない。そんな状況のまま、大家・内装業者・近隣店舗など周囲とのやり取りに時間と手間を割きなんとか開業にこぎつけた。
JOE’SMAN2号は、”魚と日本酒のマリアージュ”がウリである。開業後、試行錯誤を重ねる中で、今年からは魚をメインにすることにし、より専門性を高めることにしたのだ。魚料理はどれもひと手間もふた手間もかけられ、”洋”のテイストを ミックスしている。
中にはこうした料理・素材・酒・BGMなどのミックスについて批判する人もいるという。しかし、自分が良いと思ったこのテイストを貫くための、それに負けない気持ちの強さを持つことが大変だったと髙崎氏は語る。批判がある中でも、この店を通して人との出会いが増えたことは喜びであり、お客様から自分のみならず料理やスタッフが褒められることはやりがいでもある。
今後は現在の店を含めて3店舗経営することを視野に入れている。3店舗目は、いつか両親が経営していた洋食店を復活させることだ。そのために、今日も美味しい食事と日本酒の組み合わせを”遊んで” 頂くために腕を振るっている。
これから開業する人へは、やれることは早目にやり物件が決まる前 (コンセプトが決まった時点)に自分の店を具現化してくれる業者を探し一緒に動いた方が良いとアドバイス。「開業前には、とにかくどこかへ行って話を聞くなり、リサーチをした方が良い。きっと役立つサービスがあるはずだ。」と話す。飲食店を開業するには料理やコンセプトを作るだけではない、多くの”やるべきこと”が待っている。その苦労を身に染みて感じた髙崎氏だからこそのメッセージだ。