東京都の先輩経営者からのメッセージ
人の役に立つことが好き
オーナー田村 修司 氏
カレー2010年開業
「人の役に立つことが好き」
「最初はカレーをやる予定は無かったんですよ。」田村氏にインタビューさせて頂いていた途中ネットで見た情報をについて聞いた際に教えて頂いた。
今や食べログで4点以上、東京で1位、2位を争う名店カッチャルバッチャルだが、オープン当初の8年前はメニューにカレーは無かった。
「お客様の役に立つこと、喜ばれることをお店では常に意識しています。」と田村氏。
当初無かったカレーを始めたきっかけも食べログの担当者にお客様が求めていますから。と言われたからということだそうだ。
カレーを出すか出さないかについてはそんなに抵抗はなかったそう。お客様が求めているなら出そうかな。ぐらい。
安易に聞こえるかもしれないが、「お客様が求めていた、だから作った。」という意味は極めて商売としてシンプルにして、原点。ポリシーはそこにあるのだと教えて頂いた。
田村氏は新宿で多くの人に惜しまれつつ閉店した「新宿ボンベイ」、日本で最も有名なインド料理屋の一つである「ダバインディア」と合わせて10年修業。身に付けてきたカレーを更に成長させることとなり、今のカッチャルバッチャルが生まれた。
「元々のコンセプトは「スパイス料理とお酒」を楽しんでもらうことでした」と田村氏。
インド料理はお酒に合わないとよく言われているが、実際そんなことは無いと考えていた田村氏はカレーのスパイスと日本の焼酎をメインとしたお酒全般を合わせることに主眼を置いていた。
「ボンベイやダバでやっていた時から、自分だったらこうやりたい。というものがありました。」と田村氏。繁華街という一等地に位置し、いつも多くのお客様に来て頂くお店ではなく、地域に溶け込み、狭くてもいいから坪単価も安く、従業員数も少なくできるお店を目指していた。「大塚を選んだとはそんな理由からです。」と田村氏。
地元に密着して、常連さんがお酒を飲みながらインド料理やカレーを食べに来てくれる。最初の頃はカウンターで自分ひとりしか従業員もいなくて、そんなことも多かった。
今では時間制もあったり、遠方から予約でカレーを食べに来てくれて、お酒を飲んでゆっくりして行けるような常連さんは減ったが、根本にはそういった人と人が繋がる、繋がりたいという想いがいつもある。
「今でもよくお客様と話します。来た人皆としゃべる必要は無い。嫌な人も正直います。でも気に入ってくれた人にはまた来てもらいたいと思いますし、そういう方とは仲良くなり、その人その人に精一杯、自分が持てる限り尽くす。その人の好みや名前、前回いつ来たか、何を食べて喜んでくれたか。など。」田村氏のお店が繁盛店となった今でもその想いは全く変わらない。
「なんでそうするかというと、単純に自分がそれをやられた時にすごく嬉しかった。人が人を呼ぶ。だからカレーも始めたと思う」と田村氏の想いを教えて頂くことが出来た。
日本でインド料理を専門でやる日本人シェフはまだまだ少ない。日本人なりの更なるアレンジや発想ももっとできると思うし、インド料理の裾野が今後もっと日本人にも広がっていって欲しいと田村氏は話してくれた。
「僕も8年前の今日、お店をオープンしました。厳しい世界ですが、見つめ過ぎてもうまくいかない。少し冷めた目で見ることも大事。料理が美味しいくらいでお客様が来てくれるなんて思っちゃいけない。多くの引き出しを持って、食材を深く理解する。老舗と呼ばれているお店が潰れる時代。周りを見て、食べ歩きをしたりしながら多方面から自分のお店をみることや、常にアンテナを張って時代を読むことが必要ですよ。」とアドバイスを頂きました。
お店を永く続けるには文化を作り上げることです
オーナー代表 岩澤 正和 氏
イタリアン2012年開業
日本でも屈指のナポリピッツァ職人である岩澤氏に話を伺った。
創業前は大手の飲食チェーン店でカジュアル店の1号店から開発に携わり、
調理技術の指導とFC加盟店開発の事業責任者を務め、実績を積んでいったという。
その当時、ナポリピッツァの世界大会において、2006年・2007年と2年連続表彰を受けている。
日本人としては初めての快挙だった。
「30歳で独立しようと強い意志を持っていました。」
大手でキャリアの実績を積んできた岩澤氏であっても“独立開業”という壁にぶつかったという。
「どんなに実績を積んでいたとしても、経営者としての信用はゼロですからね。」
なかなか出店する場所を提供してくれるまでに到達できなかったという。
そんな中、たまたま降り立ったこの地で出店する運びとなったという。
そこは、かつてチェーン店時代に商圏調査を実施して“出店しない”結論を下した場所だった。
地主さんと会話を交わす中で、岩澤氏の熱い想いに共感して、応援してくれるようになったという。
岩澤氏自身もこの地が個人店に手厚い土地柄というのを感じ取り、
また、これから先もますます発展していくであろう街並みの可能性を見出していた。
美味しいナポリピッツァが作れれば、儲かるという訳ではない。
「プロは技術が出来て当たり前、飲食業は技術よりもサービスの方が大事だと思うんです!」
店舗スタッフには常日頃から、お客様に言われる前に行動するように言い続けてきている。
経営者として一番大切にしていることだ。
もう一つ、経営者の社会的信用を積み重ねるために、“使命感”から取り組み続けていることがある。
食の安心・安全の追究だ。
いかにして、メイド・イン・ジャパンの食材を使って本場イタリアの味を超えられるか?
ヨーロッパの基準に適合した無添加の国産小麦粉を例に挙げれば、開発から導入に至るまでに
軽く5年を要したという。もちろん、いろいろな人たちの協力があっての賜物である。
それでも、そんな血の滲むような努力はアピールして来なかったという。
「だって、ここのピッツァを食べれば、わかりますよ!」
口コミが次第に広まり、今や予約の絶えない繁盛店となったのは言うまでもない。
「100年続くお店にしたい。そのために本当のナポリピッツァを知らない人に広めていくこと。」
“これを食べたいと思ったらあの店!”と選ばれる、100年近く続いている老舗店の共通点だという。
つまり、文化を作り上げることだ。
「それを一生かけてやってみたい!」と熱く語ってくれた。
これからについて、店舗を拡げていくことは考えていないという。
人気店であるが故、学びたいという声も多く、独立支援にも精力的に関わっていきたいという。
最後に、これから開業を考えている人たちへのメッセージ
「10億円を稼ぐ意気込みでやってください!!」
人生観を変える手伝いを
オーナー須賀 光一 氏
洋食1986年10月開業
いまでこそ老舗洋食店と呼ばれる黒船亭だが、老舗にも開業当初の苦い思い出はある。
一般的に洋食店のオーナーと言えば料理人のイメージが強いが、その点で言えば
須賀氏は異色の経歴の持ち主だ。
建築会社の企画職として働き、その後はアパレル業界に十数年身を置いた。
そんな須賀氏が黒船亭を始めたきっかけは、父親のこんな一言だった。
「このフロアで儲かる商売をしてみろ」
父は元々フランス料理店を経営しており赤字に転落していた。
洋食という新しい形と空中階での飲食店開業に、銀行から良い顔はされなかった。
そして開業後、案の定と言わんばかりにお客様はゼロに近い状態。
仲間は心配して「1階のショーケースには食品サンプルを置くべき」
「お店に自分の趣味のもの置くから…」など様々な厳しい意見が思いやりの言葉として飛び交った。
挙句の果てにお店の料理人からも「社長、お客がいないじゃないか!」と営業中に
客席に聞こえるように言われたこともあった。
それでも須賀氏は自分の信念を曲げなかった。
「これで良い。周りの声に流されず、自分はマーケットを信じる。」
若い女性が行きたくない店。それを無くせば良い店になる。
そんなお店をアパレルで培った経験で感覚的にわかっていた。
とはいえ半年もこの状況が続いた時、さすがの須賀氏も考えを見直すべきかと悩んだという。
そんな時、昔からの仲間がこんなことを言ってくれた。
「お前は耳が悪いのか?俺には聞こえるぞ。すぐドアの外まで近づいている
お客様の足音が。お前がやるべきことは一つ。人を増やしてピカピカに店を磨け。」
売上が立たず、普通なら人件費の見直しも迫られるような状況下でまさかのアドバイスだった。
このまま信念を貫き、お客様を迎える準備をしろというアドバイスに背中を押され、
そして次第に店は軌道に乗っていった。
あれから数十年経った今でも、須賀氏は清掃に余念がない。
「トイレ無臭化作戦」と銘打ち、トイレの床から天井までナノコーティングを
取り入れているという。
そんな須賀氏だが、苦労はここで終わらない。
黒船亭が軌道に乗った一方で、辛い出来事も起こった。
毎月多額の赤字を抱えるプロジェクトがあったのだ。
最悪の事態を考えたとき、死んだつもりで働こうとがむしゃらに働いた。
そのがむしゃらという想いが赤字を解消した。
繁盛店となった今、須賀氏は黒船亭で独立支援を行っている。
その支援の内容は主に”気づきを与える”こと。
料理の技術や経理は教えることが出来ても、それ以上のことは
自分で気づかないと信念は形成されない。
信念がない店にはお客様は来ない。逆に言えば、強い想いや信念があれば
お客様が寄ってくるお店になると。
須賀氏が独立支援を通してここまで真摯に向き合うには理由がある。
「苦労が人を成長させることは確かだが、自分のような辛い経験は若い人には
させたくない。だから自分は気づきを伝えたい。
せめて自分がした苦労の中で気づいたことを、若い人に伝えたい。」
このように語る姿は、どこか父親のような兄貴分のような印象を受けた。
普通料金でグリーン車に乗る
オーナー村田 秀章 氏
焼鳥1982年10月開業
創業は昭和57年。
元々人形町は花柳界として栄えており、そこで両親が料亭へ果物を卸す
卸業を営んでいた関係で、子供の頃から食べ物屋には馴染みがあった。
果物屋をするよりも、食べ物屋をしようと漠然と考え始めたのが
きっかけだったと店主の村田氏は言う。
「お店のコンセプト、ウリは“入りやすさ”を一番に考えたら『焼き鳥』でした。
ただし焼き鳥だけじゃなく、本格和食も提供したいと考えていました。
キャッチコピーは“普通料金でグリーン車へ” 出汁もひくし、ポン酢から
何から何まで調味料も作ります。」
手頃な料金で本格和食も食べて頂きたいという村田氏の想いが、
このようなキャッチコピーに表れている。
本格和食を提供するためには職人さんの力が必要となるが、
実はそれが村田氏の悩みの種となってしまった。
「開業時はとにかく職人さんに気を遣ったことが一番の苦労話です。」
そう語る村田氏は当時26歳。
弱冠26歳の新人経営者に対し、職人さんの方が年齢は上。
しかし自分は経営者という立場であり、接し方はどうしたら良いものかと
日々頭を悩ませたという。
それでも不思議と「失敗するんじゃないか?」と不安になることはなかった。
最初の数年間は自分自身も調理場に立ち、ホールはアルバイトに任せていたが、
ホールスタッフも色々と間違えれば自分が対応しなくてはならないし、
経営者として帳簿もつけなくてはならない。
この経験を基に「経営者として飲食業界に参入する方には、経営と料理の
両立の大変さを味わうことになると伝えたいです。」としみじみと語っていた。
久助のランチタイムメニューは焼き鳥重1種類のみ。
言わずと知れた看板メニューでメディアにも多く取り上げられ、
2時間だけの営業時間にも関わらずとても人気が高い。
一方で、夜のメニューは和食と地酒を提供している。
開業当初は全国各地の地酒を提供しているところはほとんど無かったので、
とてもお客様受けが良かったという。
このような繁盛店である久助について、村田氏に繁盛の秘訣を聞いてみた。
「最近の飲食店オーナーさん達は、食事をしようと思ったら自分の店ではなく、
他のお店に行くことが多いと聞きます。でも、私は自分の店で食べたいと
思っているのです。自分が行きたいと心底思える店でなければお客様にも
自信を持って受け入れることが出来ないと信じています。」
他店に視察に行くことは勉強になると思うが、まずは自分のお店が一番だと
思えるようにするというお客様目線に立った経営者の姿勢が伺えた。
さらに経営する上で最も大切にしていることを尋ねると、
「やはり、お客様にもう一度来たいと言ってもらうことです。
勝負はお店を出てから。外で『良かったね。また来よう』と言わせることです。」
とのこと。
店の中で言われても社交辞令の可能性があるため、店の人がいない場所で
言ってもらえることが大切だという。
村田氏としては今後店舗展開したいと思っているわけではなく、どちらかと言えば
家族との時間を大切にしたいと思うこともあるという。
今の時代は人不足なので大変な時代になったと前置きしつつも、
「商売はやろうと思えばいつでもできますから。」という言葉に長年繁盛店を
経営してきた経営者としての自信が感じられた。
開業の先にあるもの
オーナー宮﨑 陽 氏
カレー1994年開業
宮﨑氏とインドにつながりが出来たのは、今から数十年前。
旅行会社に10年勤めていた時、添乗員の仕事でインドを訪問したことがきっかけだった。
元々喫茶店で独立開業しようと考えていたが、当時単価の安いチェーンのコーヒー店が
増えたため考え直し、「素人開業するならお客様の前で料理するよりも、
仕込みに比重が大きいカレーが向いているのでは?」
と考え、そこで本場のインドで食べた美味しいインドカレーが結びついた。
当時は夫婦二人で開業するのに、到底銀座など物件の貸し手は見つからなかったが、
たまたまビール会社とお付き合いのある不動産屋さんが一号店となる銀座の物件を見つけ、
ついに開業に向かって進むこととなった。
開業するにあたっては、奥様が3年間インド料理の研究家に弟子入りし、さらに宮﨑氏自身も
1年間赤坂にあるインド料理店の店長として経験を積んだ。
そのインド料理店で出会ったインド人コックの友人を一人日本に呼び、
宮﨑氏自身も調理をしながら、夫婦で一号店をオープンした。
インドから連れてきたシェフのため、この店の開業のためにインド料理を数年かけて
学んでくれた妻のため、開業後はひたすら寝る時間を削り、働いた。
慣れない仕込み作業に時間がかかり忙しい毎日だったが、それでも楽しかったという。
一店舗目が口コミでお客様も定着して安定してきた頃、インドにある他のメニューを
紹介して楽しみたいという気持ちで、異なるコンセプトの二号店を開店した。
現在繁盛店3店を経営する宮﨑氏に今後の展望を伺うと「味・雰囲気・サービスなど、
自分の納得できるレベルを維持管理して行くには、自分には3店舗が限界」と、
3店舗以上は増やさないつもりとのこと。
宮﨑氏が経営する3店では独立開業希望者も働きに来ることがあり、
「開業したい!というやる気のある人と働くのは楽しい」と語っていた。
店には特に隠し事もなく、学びたい気持ちがあればレシピなど何でも教えるという。
「お店では料理だけではなく、接客やお客様とのつながりなど、
様々なことを学んで欲しい。レシピを持ち逃げされても構わないが、
そんな縁を大切に出来ない人は商売が上手く行くわけがない。」
このように語る宮﨑氏は経営者の仕事についても語ってくれた。
「価値の創造と分配」
「経営者の仕事とは、価値を作ること。新しい価値を作れば、
お客様はお金や笑顔を返してくれるので、それをこの店に関わる全ての人と分配する。」
驚いたことに、この“分配”については業者さんにもWinであって欲しいという想いから、
値段が極端に高い時以外は仕入れ先に値段交渉したことが無いという。
最後に、これから開業を希望する人に向けてこのようにメッセージを送ってくれた。
「自営業者の商売はライフスタイル。
どうなりたいかよりも、どのような存在でありたいか。
自分にとって何が幸せかを考え、商売のイメージと結び付ければ良い。
お金だけのためや、主になりたいという考えだけではそれを達成した時に
飽きてしまって続けられないと思います。」
宮﨑氏にとっては繁盛することがゴールなのではなく、その先にある
自分の幸せや関わる人達の幸せがゴールのようだ。