東京都の先輩経営者からのメッセージ
美味しいものを食べてお腹いっぱいになると人は幸せになる。その幸せをわけてもらっている。
石井 明美 氏
洋食2008年開業
家業として両親が戦後間もなく、屋台で商売をしたのがはじまりだった。当時は築地から仕入れたイカのフライやコロッケなどを売っていたという。その後屋台から店舗に広げ、当時の洋食の流れもあり、ビーフカツレツ・ポークソテーを看板商品とした、今のお店の形が出来たのだという。『そよいち』は現店主の石井氏が両親の店から独立し、2008年開業した店舗だ。幼いころから両親の商売する姿を見て、店を手伝いながら味を受け継いできたのだという。
こだわりのビーフカツとポークソテーに使用する肉は、肉質や脂の入り方・色つやなどをみて厳選し仕入れている。カツに使用するパン粉も独自に業者に頼んで特注している。揚げ油はラード一本にこだわり入れ替えながら常に新鮮な油で揚げている。肉の仕込みはジューシーさを保ちながら、お客様に食べやすいようにと独自の工夫をしている。
「オープンキッチンのスタイルにしているのは、お客様の反応をじかに感じる事が出来るからです。味を受け継いできた土台となるものもあるが、常に美味しいものをどうしたら出せるのか考えながら、レシピや仕込み方法を改善しています。」同じやり方をただ繰り返すだけではなく、常によりよい改善をしていく、それを続けることにより自分自身の味と店が出来てきたということだ。
「お客様に美味しいものを提供して、幸せを感じてもらえれば、自分自身も幸せに感じます。幸せを分けてもらっているのだと思っています。」「利益を追求よりもまずは信用をつける事。それが大事だと思っています。」と石井氏は語る。
お客様には両親の代から親子3代に渡って通って来てくれるお客様も多いという。また最近ではインターネットのおかげで評判を聞いたお客様が遠方から来て頂くことも増えてきたという。「今後も来て頂いているお客様のために、体の動く限りお店に立ち続けたいです。」とのことだ。
元気に明るくポジティブに!仕事を好きになれば好きな事ができる
諸橋 宏明 氏
スープカレー2011年開業
『スープカレーカムイ』は41種類のスパイスとハーブを使用し、新鮮で厳選した野菜を都内近郊で仕入れ、その日の朝に仕込んだスープで作った本格的なスープカレーが看板メニューの店だ。本格的なスープカレーの店でありながら、店内に入るとアニメのイラストが数多く並び、時にメイドの制服を着た店員さんが出迎えてくれるという、秋葉原の一風変わった雰囲気の店だ。
諸橋氏が開業を志したのは、まだ高校生の頃だったという。当時札幌ではスープカレーの流行りがはじまった頃だった。35歳までに独立の目標を立て、出版社でタウン誌などを担当しながら、流行りの店の情報を仕入れ、29歳の頃北海道のスープカレーの有名店に修業に入り、5~6年経験を積んだという。34歳のころ、当時東京で北海道物産展を任された時に、以前から目標としていた秋葉原での出店を決意。催事終了と同時に、そのまま秋葉原に家を探し移り住んで即物件探しを始めたという。
「自分は本当に運がいいんです。一人だけではここまではできなかった。開業する時には色々な人に手助けしてもらいました。物件もたまたま知り合いが『やるなら貸すよ。』と言ってくれたり。資金もなかったが、これまで付き合いのあった方が資金援助をしてくれました。」そう諸橋氏は開業当時を振り返る。
そして2011年『スープカレーカムイ』を開業した。開業当初イベント的に秋葉原の雰囲気に合わせスタッフがメイド服で接客をしたのがきっかけで、アニメのイラストを持ってくるお客様が増え、口コミが広がり著名なアニメイラストレーターや漫画家、地下アイドルと呼ばれるアイドルともコラボレーションするようになり、現在の店の雰囲気が造られたということだ。
「心がけている事は、元気に明るくポジティブに。という事。自分自身がそうしたいということと来て頂いたお客様にも美味しいスープカレーを食べて元気に明るくなって欲しいと思っています。」そう諸橋氏は語る。「まず仕事を好きになる、仕事を好きになると好きな事が出来るようになる。」今後は飲食経営にとどまらず色々な分野に挑戦していきたいという。
人が一番!頑張っているスタッフに報いてあげる事が出来た時が一番のやりがい!
渡辺 浩志 氏
レストラン1992年開業
もともと父親が家業でサンドイッチ店を経営していた。その場所を27歳の時に引き継いだのが飲食店を経営することになったきっかけだった。当初はサンドイッチ主体のカフェバーとしてはじめ、約3年間営業していたという。現在のステーキ屋の形になったのは、偶然が重なった結果だった。当時下北沢にあった、まだフランチャイズ展開する前のふらんす亭に出会い、その業態に可能性を感じのれん分けをしてもらったのがはじまりだという。
1992年ステーキ屋として開業後は非常に好調に売り上げをのばしたため、当時のフランチャイズ『ふらんす亭』のコンセプトモデルになった。「その当時売り上げも好調だったので、直営店も3店舗に増やし、その他焼肉業態とホルモン焼き業態の店舗を1店舗づつ広げました。」そう渡辺氏は振り返る。
しかしその後は売上が伸ばせない厳しい時期も経験し、本来の自分自身にあった主力業態に立ち返ることを決意。 「当時は店舗を増やす事は出来たが、業態のタイミングを外したり、建物の建て替えで移転を余儀なくされたりと厳しい時期もありました。」「今もそうですが、日々決断に迷う時は、現場にでるとテンションも上がりポジティブに考える事が出来るんです。現場に出ながら、やはり自分自身にあった業態に立ち返ろうと決めました。」
その後これまで踏襲してきたふらんす亭のスタイルから自社で開発した業態コンセプトに転換を図り、『1ポンドステーキと肉汁溢れるハンバーグ』を主力に打ち出した『ヒーローズ』が誕生した。わかりやすく明確なコンセプトが、ターゲット層をしっかりつかみ今では常に行列が出来る繁盛店となった。
「一番嬉しかったのは、長く厳しい時期でもついてきてくれた今のスタッフにはじめて賞与を出してあげる事が出来た時です。」「人が一番!彼らがいてこそ自分も今社長という立場で仕事ができる。感謝の気持ちを持って頑張っているスタッフに報いてあげたい。」そう渡辺氏は語る。今後直営店舗の出店も含め、将来的には、今のスタッフがそれぞれ独立し開業できるように支援していきたいとのことだ。
日本の国民食を革新的な調理方法で、健康的で楽しい新しい食文化として進化させる
佐藤 卓 氏
カレー2007年3月開業
佐藤氏が、飲食業界に転身したのは30代半ばだった。それまでは日産自動車の商品企画や法務などで約十数年働いていたという。 転身するきっかけは、日産自動車の担当としてロサンゼルスに駐在していた時だった。
当時日本のヘルシーでライブ感のある寿司や鉄板焼きなどの日本食文化が定着し始め、若者世代がそれに継ぐ新たな日本のフードカルチャーを探している流れを感じた時に、日本独自の国民食カレーに2つの要素(ヘルシーとライブ感)を加えた業態を持ち込めば流行るのではないかと感じたのだ。仕事の関係で日本に戻ることになった時、この着想は東京でもいけるのではと考え開業を決意したという。
「当時日本でカレーを食べ歩いた時に、日本のカレー店の共通項は、男性向けでありジャンク(がっつり・こってり)でシンプルがコンセプトと感じました。一方であるリサーチの結果では女性の95%はカレーが好きだという結果もあり、逆の発想で女性向けであればこのコンセプトで行けるのではと感じました。」そう佐藤氏は語る。
大手チェーン店で2年飲食店運営を学んだ後、2007年「野菜を食べるカレーcamp」を開業した。「開業した当初2年間は厳しい時期が続きました、ただ当初のコンセプトを崩す事は絶対にしたくありませんでした。わずかながらですが手ごたえも感じていたこともあります。」現在の名物メニュー『1日分の野菜カレー』は、そんな時期に毎日来て頂いていた常連様への特別メニューから誕生したのだという。口コミで評判となり、現在は直営店とFC店舗合わせて13店舗展開している。今後はさらに多店舗展開を進めて行く予定だという。
「飲食店経営の上で一番大事なのは『現場』です。」「厳しい時期もあったがその経験があるからこそ現場の大切さを知りました。今後も現場に立ち続けます。」そう佐藤氏は語る。今後も現場に立ち続けながら新たな食文化の創造に挑戦し続けるとのことだ。
「一日一変化」がもたらす、幸せの連鎖
三浦 正和 氏
ラーメン2009年開業
「なぜラーメンなのか?」と振り返った時、そこに浮かんだのは友達の喜ぶ顔だった。スキューバダイビングの専門学校時代、美味しいラーメン屋を探しては、みんなを車に乗せて食べに行っていた。その時の友達の喜ぶ姿が嬉しくて、ラーメン屋の開業を決意。
実家はもんじゃ焼き屋だったが、ラーメン経験はゼロ。開業決意後に修行先となるラーメン屋選びが始まった。修業先選びのためいくつか店を巡っていた時、たまたま新宿のある有名店の前で、空からカラスが口に咥えていた骨(豚骨)が落ちてきた。それに運命を感じた三浦氏は、「ここで働く!」と決め、門戸を叩いた。
それから気が付けば10年近く。調理のみならず、味の開発・給与決め等人の管理・店舗立ち上げなど、「経営者に近い管理者」としてたくさんの仕事を任せてもらい、成長出来た。もちろん、これは「この店の看板に傷を付けちゃいけない」と日々プレッシャーと戦いながら自ら勉強した結果だ。
そして、入店から10年経った時、自らの店舗を立ち上げるべく退職。有名店からの独立は、メディアにも注目された。開店前から密着取材が入り、開店日の遅れは許されない状況になった。
そんなオープンを1週間に控えた頃、実はスープはまだ完成していなかった。「辛さとシビレ」というテーマはあったが、なかなか納得出来る味に仕上がらず、逆にこのテーマに縛られることとなってしまったのだ。そんな時、また偶然の出来事が起こる。試作をしていたスタッフが棚にあった唐辛子パウダーをスープの中に落としてしまった。本来ならばすぐに捨ててやり直すところだが、この時の三浦氏は違った。「ネガティブにならない。否定はしない。」この考えに基づきスープを口にした時、頭の中で全てがつながった。それが現在のカラシビ味噌らー麺の原点になるものだった。
こうした奇跡にも似た偶然に恵まれた三浦氏だが、現在鬼金棒が繁盛していることは決して偶然ではない。「五感で楽しむラーメン屋」というコンセプトの基、和太鼓の音で耳を、中華鍋から上がる火柱で目を、そしてスパイスの香りで鼻を・・・。お客様は来る前からワクワクし、店内に入りまたワクワクする。そしてあのスパイスの虜になり、再び来店する。こんな仕掛けがこの店には随所に散りばめられているのだ。
これから開業する人へ向けてメッセージをお願いすると、「身近なものを大切にした方が良いのでは・・・・・・・・・ないでしょうか。」と謙遜した様子で答えてくれた。三浦氏にとっての「鬼に金棒」とは、人と人とのつながりを大切にすることで、さらなる自分の力になるということのようだ。