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飲食店先輩経営者からのメッセージ

すでに飲食店経営者として活躍されている先輩経営者から後輩経営者に向けてのメッセージです。
これから共に飲食業界を引っ張っていく後輩経営者へたくさんのメッセージが寄せられています。

東京都の先輩経営者からのメッセージ

あぺたいと

『いらっしゃいませ』『おいしかった。また来るよ』店とお客様が感謝で結ばれる事

オーナー 飯野雅司氏 氏

ラーメン,
1988年3月開業

店名の「あぺたいと」とは英語でappetite(食欲)を意味する。1988年飯野氏が開業する際に、いくつか候補がある中から一番気に入ったこの言葉を店名としたのだという。

飲食業で独立を考え始めたのは、飯野氏が18歳~21歳の頃九州で生活をしていた時に、九州ラーメンの美味しさに魅せられ、東京で九州ラーメンの店を開業しようと考えたのが、はじまりだったという。20代半ばから九州で修業し28歳の時に現在の場所で「あぺたいと」を開業をした。

当初は今のように焼そば主体ではなく、九州ラーメンと焼そばの2本立てで始めたのだという。しかし九州のとんこつラーメンは、当時まだまだ関東では認知されておらず、立ち上げの際は非常に苦しかったという。「お客様が店に来ても、とんこつラーメンしかないとわかると帰ってしまったりしたこともありました。また使用する材料も関東では扱っていない食材もあり苦労しました。」そう飯野氏は振り返る。

幾度かメニューも試行錯誤を繰り返し、出数の多い焼そばを中心に徐々に現在のメニューになってきたという。焼そばも九州で使っていた麺が、関東ではどの製麺所でも作っていなかったため自家製麺で出すことにした。加水や麺の太さを工夫しソースも素材の旨みを引き出す独自の工夫で配合した。

現在の『両面焼きそば』に完成させるまでには約20年の歳月をかけたという。「食感は外はパリッと内はジューシーで香ばしい、そして素材の旨みを引き出す自家製ソースがさらに食欲をそそる。それがあぺたいとの両面焼きそばです。」「ただ作ると云うだけではなく、心をこめて調理する。料理に対して愛情を持ち続ける。それがお客様にも伝わっていくのではと思います。」と飯野氏は語る。

現在は直営店からのれん分けした店舗が4店舗に広がっている。今後は人材を育てながら、直営店とのれん分けの店舗をそれぞれ増やして行きたいとのことだ。「普通の人が10だったら自分は20。いやそれ以上頑張らないといけない。大きくしたければ、同じ事をやっていては他と変わらない。」と今後も新たな挑戦を続けて行く。

キッチンたか

毎日新鮮な物を仕入れその日のうちに使い切る

高橋 和男 氏

洋食
2011年9月開業

高橋氏が飲食に関わりを持ったのは、高校生の頃飲食店のアルバイトしたのが、 はじまりだった。高校卒業後、単身東京に出て住み込みで飲食店の仕事を本格的に始めた。それ以来、純喫茶・ベーカリーレストラン・居酒屋・炉端焼き・バー・パスタ店など様々な業態で経験を積んできたという。

四ツ谷の老舗洋食店で経験を積んだ後、2011年に独立し、『キッチンたか』を開業した。開業場所は当初からビジネス街での出店を考え、店舗の規模や賃料条件も見合った現在の場所に決めたという、ただ現在の店舗を見つけるまでには、50~60の物件情報をみたという。

「まずは自分自身で一人で店を管理できる範囲で、無理せずに運営できる店舗規模と賃料条件で開業できる場所を決めました。メニューも絞り開業当初は、ハンバーグやポークソテーなど7品から始めました。」と高橋氏は振り返る。お客様の流れや運営面も見ながら1年くらいかけて毎月2品~3品増やしていき現在のメニューと品数になったという。

一番の人気メニューは、肉汁がたっぷりつまった『ハンバーグ』だ。これまで培ってきた経験と技術で丁寧に焼いたハンバーグを、オーブンで仕上げる事により肉汁と旨みを逃さず提供出来るのだという。肉汁たっぷりのハンバーグは口コミで評判となり、遠方から来店されるお客様も多いという。

「まだ飲食店で働き始めたころ、はじめて自分の作った料理をお客さんが『美味しかったです。』と言ってくれた時のうれしさは今も覚えています。」「芸能界と飲食業は笑顔で働く所と昔上司に言われた事があります。自分自身も飲食が好きです。毎日新鮮なものを使用し、その日のうちに売り切る。そしてお客様に美味しかったと言われることはやはりうれしいですね。」そう高橋氏は語る。

「将来的には建物も老朽化が進んでいるので移転も考えているが、今の規模やメニューは変えずにやっていければと思っている。」今後も夫婦2人で店を切り盛りしていく。

元祖紙やき ホルモサ

立ち止まっているなら進み、考えながら動く

坂田 誠一郎 氏

紙やき
2002年開業

30代の坂田氏が経営する「元祖紙やき ホルモサ」の歴史は、実は長い。初代が営業していた店の頃を含むと、60年近く愛され続けている。

初代からこの店を引き継ぐ前、坂田氏は解体業や空調設備・アパレル業など飲食とは別世界にいた。当時、初代が店を閉めることを決めた際、この味をなくすのは勿体ないと飲食業に飛び込んだ。当時の坂田氏の考えは至ってシンプルだ。「この味は美味しいから」「店にお客様がついてる」そして、「やるかやらないか」。

開業後、店が順調にいっていることもあり、坂田氏は2店舗目を上野に出店した。結果は6~7年で閉店。来店客のリピート率は高かったが、新規客の取り込みに苦戦した結果だった。その後、バイク便事業やネット販売など様々なことにチャレンジするも、なかなか成功に結びつかなかった。

そんな時、ホルモサのまかないで出していたラーメンが美味しく、これを商品化出来ないかと考えていた矢先に人形町の物件に出会った。物件を見つけた時、「これはやるしかない」とラーメン屋の開店を決意。当時資金が少なかったこともあり、一軒家だった物件を自ら改装し、2ヶ月がかりで店のかたちに仕上げた。

こうにして人形町にラーメン店「「ばしらあ」を開業したが、内装工事に時間がかかったこともあり、レシピは不十分。坂田氏いわく、「バタバタしたせいで走り出しをコケた。」

開店後、お客様が残していくスープを飲み、「味が濃かったか?」「しょっぱかったか?」と何度もスープのレシピを変えた。本当は他人が残したものを口にするのは嫌だった。それでも、ホルモサで使用しているタレをベースにしたこのラーメンを、何とか成功させたいという一心で改良に改良を重ねた。口コミサイトでコメントが入れば、そこに必ず目を通してコメントを返し、お客様に真摯に向き合った。

その結果、お客様の理解や応援の言葉を頂きながら、徐々に支持されるお店になり、経営が安定するようになった。開店当初は「倒産のイメージが見えてしまった」という人形町の「ばしらあ」だが、現在では口コミサイトで高評価を獲得し、多くの支持を得ている。

そんな坂田氏の事業意欲は再び高まっている。いつかは紙やきホルモサのタレを一商品として販売することを目標に掲げている。「(経営は)大変だよ~・・・」とかみしめるように言葉を発して、それからこう続ける。「見切り発車でもまずやってみろ」「どんどん挑戦して欲しい」「思い立ったら即行動」と。常に迷ったら立ち止まらずに考えながら進んできた坂田氏らしい直感型のコメントをこれから開業する人へ残してくれた。

株式会社グランドサイドイノベーション

戦略的思考が生み出す、計算しつくされた繁盛

大脇 盛弘 氏

ジャマイカレストラン
2013年開業

「子供の頃から食にしか興味がなかった」と話す大脇氏が歩んできた道は、 飲食畑ではなく、営業マンとしての道のりだった。

大学卒業後、飲食店の独立支援制度のある企業も受けたが、「飲食は後から出来るし、メーカーに就職しよう」とサラリーマンの道を選んだ。しかし、元々親が商売人だったこともあり、自分自身、いつかは商売人になることが当たり前の認識だった。

サラリーマンとして数社経験した後、ついに自身での飲食店開業を決意。 「開業してからでは身動きがとれなくなる」と、家も保険も引き払い、将来のメニューの引き出しをつくっておくために半年間世界を周った。帰国後はすぐに物件探し。物件は一度決めたら変えられないので、何度も頭の中でシミュレーションを重ね、慎重を期した。シミュレーションのおかげで、物件を見るだけで投資額が算定できるまでになっていた頃、現在の物件に出会った。

物件を決めてからは、工事期間込で20日間という異例の速さでプレオープンまで漕ぎつけた。その速さの裏には、看板メニューや厨房機器の安い購入先など、大脇氏が積み重ねてきたリサーチという努力がある。

「看板メニューは鶏肉。」そう決めたのはサラリーマン時代。鶏肉は仕入れが安くてメインにもなる。そこにメディアに対してキャッチ―な要素を取り込んだものを考え、現在のウリである”ジャークチキン”に辿りついた。

大脇氏がブルックリンダイナーを今の状態にするまでに、様々な戦略的施策があるが、一つ絶対的にぶれないことは「FLR=70%以下」を守ることだ。FLコストの他、家賃を含めた比率を70%以下にするため、時には自ら厨房に入り、ホールに立ち、スタッフに示しながら人件費の調整を行う。

原価も含め、こうしたコスト管理を”シェフ”任せにしてしまうと、シェフの言いなりになってしまうため、「必ず自分自身が厨房のことをわかっておかないと」と大脇氏は話す。

そんな大脇氏の今後の展望は、2月下旬に中目黒に2店舗目を出すが、その先は既に海外を視野に入れている。ベトナムでクラフトビールを作り、現在の店舗をビアバーに近い業態で展開することを検討している。大脇氏の今後の動向には、必ず「緻密な戦略」が付いて回るだろう。

Bar うなばら

もっと多くの人に本物のカクテルの美味しさを広めたい

中野文博氏 氏

ダイニングバー
1974年開業

中野氏は日本のバーの歴史を語る上で、避けては通れない一人である。

当時世間の憧れであったアメリカの生活を体験したい、という思いを胸に中野氏は大学卒業後単身一人で船に乗り込み、アメリカ・サンフランシスコへ上陸。想いは、「本場アメリカのカクテルを学びたい!」ただそれだけだった。

その後、カクテルの本場ニューヨークへ。当時日系の有名レストランだった「サイトーレストラン」でバーテンダーとして勤務。ある時は1日に700-800杯ものカクテルを作る。今にして思うと、この時の経験が今に役立っていると、中野氏は語る。

そうこうしている間にビザが切れ、中野氏はヨーロッパの各地を巡り、本場のバーの魅力を体に吸収していく。

そうして、日本に帰国後開店させたのが、湯島の当時は「ワイン洋(うなばら)」という店だった。

中野氏の温厚な人柄に惹かれた多くの常連客は、現在でも夜になると中野氏の笑顔と全国バーテンダー技能コンクールで1位に選ばれたオリジナルカクテル「白梅」を楽しみにお店を訪れる。中野氏は「本物のカクテルをもっと多くの方にリーズナブルで提供したい。それが想いなんです」と語る。

2015年2月。バーテンダーとして52年。新たに「Bar うなばら」としてリニューアルオープン。「80歳までは現役で頑張りたい」という中野氏の言葉に、新たな熱い想いと夢を
感じた。

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