東京都 世田谷区の先輩経営者からのメッセージ
料理が旨い、接客が良い。のはもう当たり前。その次どうするか。を考える。
オーナー松本 昌悟 氏
お好み焼き1983年開業
先代のおかみから続く下北沢と三軒茶屋にある有名老舗店として、関東に広島焼きを持ち込んだといわれる両姉妹店。現在は2代目の松本 昌悟様に引き継がれ、今もなお不動の人気店として名前が挙がる。そんなHIROKIも最初広島から東京に進出されたときは色んな工夫をして、新規客を増やした。
「オープン当時にやったのが、一定料金払えば広島焼きが何枚食べても同じ金額というサービス。これは地元の大学生に素晴らしくヒットした。」と松本氏は話す。「当時はお好み焼きといえば関西が主流。広島のお好み焼はなじみが無かった。だけどこのサービスによって、広島焼きとして学生の心を掴めたんだと思います。」
OPENして割とすぐにお客を掴んだHIROKIの次の課題は、すぐに近所のお店に真似されることだった。「ちょっと人気が出ると他所の人たちがすぐに真似をして類似商品を売り出した。そこで“他所には真似できないもの”を作ろう。と考えました。」
松本氏の広島焼きは使う食材をこだわり抜いた。魚介はできるだけ新鮮なものを選び、野菜、とりわけ大量に使うネギは現地広島から取り寄せた。帆立は活ものを使い、半生で提供し、牡蠣は牡蠣市場まで行き剥き方、扱い方まで修業した。そのような努力が他店との差別化になったのだと松本氏は教えてくれた。
また上記のこだわりには更に良かったことが起きた。それは新鮮で良質なものだということで、広島焼きとしての具材だけでは無く、それ単品を良いもののあまり「おつまみ」として売れるようになったことだった。お客様は広島焼きを食べる前にそれらのつまみを食べ、更にビールなどを飲んでから、広島焼きを食べることになり、当然今までより大幅に客単価を上げることに成功した。
「ソースも最初は市販をベースに作ってましたけどね、今は完全オリジナル。東京には多くの店があります。ピンチと思ったことがチャンスになった。何か特徴を付ける、“あそこに行けばあれが食べれると思ってもらえることが重要だと思います。」
「一途に頑張っている人って応援したくなりませんか?」
最初に書いたタイトルの答えを松本様はこのように考えていると教えてくれた。
「一途に頑張っている姿をお客様に見せることで、お客様に感動してもらったり、共感してもらうこともとても大切。」と松本氏。
「自分自身も連ドラやジブリを見ていると主人公が頑張っている姿が多く描かれている。それを見て自分も頑張ろう。と力を得たりします。頑張っている人ってどうしても応援したくなるんですよね。飲食店の“次”も応援してくれるお客様をつくることだと思っています、お店が忙しいとき、人が足りてなくて料理が中々出せないとき彼らは必ず応援してくれます。モンスターカスタマーなんて言われますけど、それはお客様がそうなっているのではなくて、お店がそういう人を作ってしまっているのだと思います。」ととても深いお言葉を頂きました。まぁ中には例外の方もいるそうですが。
「お店の人はお店から逃げられない。怒らせて損するのはお店。常にどうすれば良いか考えています。」と松本氏。
「これからお店を始める人は、お店を出すことは目標ではないことを覚えておいてください。続けることが目標です、10年続けられるように“覚悟”が大切。一人であれば続けられるように、いざとなったらお店にベッドを持ち込めばいいんです。」と愛のあるお言葉を頂きました。
変わらないこと
山根 直之 氏
和食1950年創業
現在お店を切り盛りしているは3代目の直之氏。創業は1950年。開店当初は居酒屋からスタートしたのだそうだ。看板メニューの“牛肉煮込み”が大変な人気で仕込みが追いつかなくなり他のメニューを少しずつ減らしていき2代目が引き継ぐ頃には現在の形態である“煮込み専門”となっていたのだとか。3代目直之氏はいつもお店を手伝っていたが高校卒業時に家業を継ぐことを決意する、ただ外の世界も知らなければならないと、5年ほどで勤めに出て修業を積んだ後、2代目である父親の体調も考え家業を引き継ぐことになった。経営で一番大事にしているのは“変わらないこと”と語る。味はもちろんのこと、食材なども極力変えずに同じ味に仕上がるように神経を使う、素材は生き物だけに個体によっては変化が当然起きる特に個体差の大きい牛肉は国産のものだけを1頭買いで仕入れ捌き方から熟練の技術を駆使して微調整しながら一定の味に保っている。また改装をしたときも以前からの常連さんの為に、ほとんど見た目に変わらないように改装したほどの徹底ぶりだ。おかげさまで、50年通い続けてくれるお客様や30年ぶりに懐かしんで再来店してくれるお客様などに変わらず愛され続けている。2代目曰く「最高時は1日500人ほどのお客様が来てくれた日もあり、その時は1俵のお米を炊いた。」と語る。これから始められる方には「コンビニに行けば美味しいものが、いつでもどこでも買える厳しい時代、専門性こだわりを持って臨んで欲しい。」と老舗だからこその温かいエールを贈りつつ、今後も“変わらないもの”を守り続けていく。
街に根付く店作り、人創り
髙崎 丈 氏
居酒屋2014年開業
実は、2014年にこの店を開業する以前、2009年に地元福島でこの店の前身となる「JOE’SMAN」を開業している。
元々は東京にいた髙崎氏は、両親が経営する洋食店を継ぐつもりで地元に戻ったが、両親がまだ現役で店に立っていることもあり近くで自分の店を持つことにした。1店舗目の開業の際は、既に飲食店を経営している両親の知り合いなどが助けてくれたこともあり、あまり苦労を感じたことはなかった。
しかしその1年半後、あの東日本大震災が起こった。原発の5km圏内に居た髙崎氏及び両親は、それぞれ地元を離れた。
髙崎氏はその後神奈川県内の飲食店に就職。店長職に就き、店舗の数値管理を学びながら、自分の店を再度開く準備を整えていった。
現在の店舗を開業する際は、2度目の開店とはいえ、地元とは勝手が違った。法令に関するようなことになると、誰も自分の責任で発言をしない。そんな状況のまま、大家・内装業者・近隣店舗など周囲とのやり取りに時間と手間を割きなんとか開業にこぎつけた。
JOE’SMAN2号は、”魚と日本酒のマリアージュ”がウリである。開業後、試行錯誤を重ねる中で、今年からは魚をメインにすることにし、より専門性を高めることにしたのだ。魚料理はどれもひと手間もふた手間もかけられ、”洋”のテイストを ミックスしている。
中にはこうした料理・素材・酒・BGMなどのミックスについて批判する人もいるという。しかし、自分が良いと思ったこのテイストを貫くための、それに負けない気持ちの強さを持つことが大変だったと髙崎氏は語る。批判がある中でも、この店を通して人との出会いが増えたことは喜びであり、お客様から自分のみならず料理やスタッフが褒められることはやりがいでもある。
今後は現在の店を含めて3店舗経営することを視野に入れている。3店舗目は、いつか両親が経営していた洋食店を復活させることだ。そのために、今日も美味しい食事と日本酒の組み合わせを”遊んで” 頂くために腕を振るっている。
これから開業する人へは、やれることは早目にやり物件が決まる前 (コンセプトが決まった時点)に自分の店を具現化してくれる業者を探し一緒に動いた方が良いとアドバイス。「開業前には、とにかくどこかへ行って話を聞くなり、リサーチをした方が良い。きっと役立つサービスがあるはずだ。」と話す。飲食店を開業するには料理やコンセプトを作るだけではない、多くの”やるべきこと”が待っている。その苦労を身に染みて感じた髙崎氏だからこそのメッセージだ。
立ち止まっているなら進み、考えながら動く
坂田 誠一郎 氏
紙やき2002年開業
30代の坂田氏が経営する「元祖紙やき ホルモサ」の歴史は、実は長い。初代が営業していた店の頃を含むと、60年近く愛され続けている。
初代からこの店を引き継ぐ前、坂田氏は解体業や空調設備・アパレル業など飲食とは別世界にいた。当時、初代が店を閉めることを決めた際、この味をなくすのは勿体ないと飲食業に飛び込んだ。当時の坂田氏の考えは至ってシンプルだ。「この味は美味しいから」「店にお客様がついてる」そして、「やるかやらないか」。
開業後、店が順調にいっていることもあり、坂田氏は2店舗目を上野に出店した。結果は6~7年で閉店。来店客のリピート率は高かったが、新規客の取り込みに苦戦した結果だった。その後、バイク便事業やネット販売など様々なことにチャレンジするも、なかなか成功に結びつかなかった。
そんな時、ホルモサのまかないで出していたラーメンが美味しく、これを商品化出来ないかと考えていた矢先に人形町の物件に出会った。物件を見つけた時、「これはやるしかない」とラーメン屋の開店を決意。当時資金が少なかったこともあり、一軒家だった物件を自ら改装し、2ヶ月がかりで店のかたちに仕上げた。
こうにして人形町にラーメン店「「ばしらあ」を開業したが、内装工事に時間がかかったこともあり、レシピは不十分。坂田氏いわく、「バタバタしたせいで走り出しをコケた。」
開店後、お客様が残していくスープを飲み、「味が濃かったか?」「しょっぱかったか?」と何度もスープのレシピを変えた。本当は他人が残したものを口にするのは嫌だった。それでも、ホルモサで使用しているタレをベースにしたこのラーメンを、何とか成功させたいという一心で改良に改良を重ねた。口コミサイトでコメントが入れば、そこに必ず目を通してコメントを返し、お客様に真摯に向き合った。
その結果、お客様の理解や応援の言葉を頂きながら、徐々に支持されるお店になり、経営が安定するようになった。開店当初は「倒産のイメージが見えてしまった」という人形町の「ばしらあ」だが、現在では口コミサイトで高評価を獲得し、多くの支持を得ている。
そんな坂田氏の事業意欲は再び高まっている。いつかは紙やきホルモサのタレを一商品として販売することを目標に掲げている。「(経営は)大変だよ~・・・」とかみしめるように言葉を発して、それからこう続ける。「見切り発車でもまずやってみろ」「どんどん挑戦して欲しい」「思い立ったら即行動」と。常に迷ったら立ち止まらずに考えながら進んできた坂田氏らしい直感型のコメントをこれから開業する人へ残してくれた。
戦略的思考が生み出す、計算しつくされた繁盛
大脇 盛弘 氏
ジャマイカレストラン2013年開業
「子供の頃から食にしか興味がなかった」と話す大脇氏が歩んできた道は、 飲食畑ではなく、営業マンとしての道のりだった。
大学卒業後、飲食店の独立支援制度のある企業も受けたが、「飲食は後から出来るし、メーカーに就職しよう」とサラリーマンの道を選んだ。しかし、元々親が商売人だったこともあり、自分自身、いつかは商売人になることが当たり前の認識だった。
サラリーマンとして数社経験した後、ついに自身での飲食店開業を決意。 「開業してからでは身動きがとれなくなる」と、家も保険も引き払い、将来のメニューの引き出しをつくっておくために半年間世界を周った。帰国後はすぐに物件探し。物件は一度決めたら変えられないので、何度も頭の中でシミュレーションを重ね、慎重を期した。シミュレーションのおかげで、物件を見るだけで投資額が算定できるまでになっていた頃、現在の物件に出会った。
物件を決めてからは、工事期間込で20日間という異例の速さでプレオープンまで漕ぎつけた。その速さの裏には、看板メニューや厨房機器の安い購入先など、大脇氏が積み重ねてきたリサーチという努力がある。
「看板メニューは鶏肉。」そう決めたのはサラリーマン時代。鶏肉は仕入れが安くてメインにもなる。そこにメディアに対してキャッチ―な要素を取り込んだものを考え、現在のウリである”ジャークチキン”に辿りついた。
大脇氏がブルックリンダイナーを今の状態にするまでに、様々な戦略的施策があるが、一つ絶対的にぶれないことは「FLR=70%以下」を守ることだ。FLコストの他、家賃を含めた比率を70%以下にするため、時には自ら厨房に入り、ホールに立ち、スタッフに示しながら人件費の調整を行う。
原価も含め、こうしたコスト管理を”シェフ”任せにしてしまうと、シェフの言いなりになってしまうため、「必ず自分自身が厨房のことをわかっておかないと」と大脇氏は話す。
そんな大脇氏の今後の展望は、2月下旬に中目黒に2店舗目を出すが、その先は既に海外を視野に入れている。ベトナムでクラフトビールを作り、現在の店舗をビアバーに近い業態で展開することを検討している。大脇氏の今後の動向には、必ず「緻密な戦略」が付いて回るだろう。