東京都 港区の先輩経営者からのメッセージ
人の顔を見てご馳走様、ありがとうございました。と言える人の繋がりが大切。
オーナー吉田 氏
お茶漬け
創業当時や吉田氏が過ごした少年期は戦前~戦中、戦後と食べ物が全く無い時代。
「若い人には分からないと思うよ。その当時は食べれるものにありつくことが本当にできなかった時代。お茶漬け屋を始めた理由も本当のところそこにある。」と店主の吉田氏に開業当時のことをお伺いした。
吉田氏がお店を開業されたのは今から半世紀以上前、日本がまだ戦後の混乱で苦しんでいた頃のこと。今と違い物が無く、皆の心にあったものはまず食べることだった。吉田氏は当時早稲田大学に通っていたが、4年生だったある時体を壊し、そのせいで留年を余儀無くされた。費用もままならなかった為そのまま中退。お茶漬け屋を始めたきっかけは手に職も無い自分が出せる唯一のものだったことと、残ったらご飯にありつけると思ったからだった。
「就職難だったからね。中退の奴を雇ってもらえる所は無かった。最初はお茶漬けと言っても今と違ってお茶なんて高くて買えなかった。塩とお湯をご飯にかけただけのものだったよ。」と吉田氏。
「でもね、真面目にやってるとね、そりゃあ嫌でも上達するよ。」と笑いながら話ししてくれた。
今ではおよそ30種類にも渡るお茶漬けを常時提供し、お茶漬け専門と謡いながらも、刺身やお酒のアテなどを数多くラインナップした老舗名店に育った。
「僕はどこかで修業なんてしたことは無いから。全て独学。だから馬鹿にもされた。」とその当時のことを話してくださった。「今でも馬鹿にする人もいると思う。」と吉田氏、しかし大切だったことを振り返れば目標は「食べること、食べていくことだった。」
「今の人は“粘り”が少ないよね。諦めずに粘る。真面目にやっていくこと。真面目にやっていけば必ずお客さんが付く」と教えて頂いた。
繁盛の秘訣は真面目に長くやっていく。それだけ。吉田氏は御年85歳、お店に立って60年を迎えた。大きな休みは体を壊したときに取っただけだと言う。
「周りの同級生には上場している大手で社長をやっている仲間が沢山いる。」「なんで俺だけこんな“しょっぱい仕事”(儲からない)してんだろうなぁ。と思ったこともあったよ。」
「でもね、60、70歳を過ぎてね、彼らも引退する。俺は文句言いながらもね、こうやっていくつになってもこの仕事をやれることに最近ようやく幸せを感じてきたんだよ。」と笑いながら教えてくださった。
お店は20年続ければ周りが褒めてくれる。
30年続けるとまだやってる。と言われて
40年経つと心配され始める。
50年やると、もうやめろ。と言われるんだ。とこれも冗談まじりに吉田氏が教えてくださった。
空港の施設やビルの施設に出店して欲しいという依頼をもらったこともあったという。
しかし、吉田氏は自分の出しているお茶漬けはそんな大層なもんじゃない。皆にとって身近に食べれるものでありたい。と全て断ったそう。
かれこれ30年以上一緒に仕事をされてこられ、今はほぼ鹿火屋の料理を全て任されているという野見氏に最後に先輩経営者から後輩経営者へメッセージを頂いた。
「地道に考えて真面目にやること。人の顔を見ながら、人との繋がりを考えれば良いと思いますよ。」と謙遜されながらも教えて頂いた。
1人1人のお客様に支えられてきた結果
宮島 孝信 氏
SASHIMI & GRILL2002年開業
元々実家が寿司店を営んでいたこともあり飲食がいつも身近にあった。17歳から和食店に修業入りし、世界中の食を食べ歩いてきた経験から料理には限りない可能性があることを感じていたそうだ。26歳の時にハワイ料理の名店に移り、料理長迄勤め上げた。そこで作り出した独自の料理の世界観や周りの先輩たちからも刺激を受け、オリジナルな業態での独立を模索していった。遂に34歳の時に刺身あり、パスタあり、スィーツあり、「刺身=醤油」という固定概念を打ち破るような、飲める人も飲めない人も満足してもらえるお店として西麻布に1店舗目をOPENした。開業当初は客足が伸びず2ヶ月程は精神的にも徐々に追い詰められていたが半年を過ぎる頃には口コミでお客様が増え軌道に乗ったと確信したそうだ、それからは10年以上も右肩上がりの成長を続けてきたそうだ。目玉となった商品は「元祖!石焼きリゾット」で、窮地の中から試行錯誤の末に生み出され後に大人気となるオリジナル料理だ。繁盛継続の秘訣は「1人1人のお客様に支えられてきた結果」とあくまでも謙虚。そして経営者として一番大事にしていることは「人」で、現代の若者とのジェネレーションギャップは感じつつも人がいなければ何もできないと考えてきたそうだ。今後は人を育て、新たなステージも見据えて日々精進している。これから始められる方には「“覚悟”と“自分の実力の10分の1の力でも勝てる自信”が持てるのであれば挑戦すべきで、自分への過大評価は注意し勤め先の看板(バックボーン)の力も加味することが必要。」と経験からの貴重なエールを贈る。
理想郷のBAR
奥秋 勝己 氏
バー平成23年開業
元々、音楽の世界にいた奥秋勝己氏。たまたまバイト募集の記事をみて入ったお店が『セントエルモスバー』このお店でBARという空間に魅了され、バーテンダーという職業の修行についたという。そして、数店舗を渡り歩き(ホテルのBAR)十数年の修行をし様々なコンペなどでも輝かし成績も収めた。その今までの経験を振り返り、『理想郷のBAR』を作りたいという思いが強くなり、独立を決意。BARという異空間をこよなく愛する人達の理想郷というコンセプトを抱え、今の『芝浦ボンド』が完成した。勿論、オープンして直ぐにこの理想郷のBARが完成した訳ではなく、自分の今までの修行で得たスキル・経験、様々なお客様との接客の末、完成した。
今は他業種での理想郷を作る事も視野に入れ、日々精進している。自分よりも若い世代の方々に“次なる『理想郷のBAR』を作るため頑張って欲しい”と力強くエールを贈る。
お客様にはお腹いっぱい食べて、また元気に仕事してほしい!
鈴木瑞雄 / 鈴木昌樹 氏
洋食1985年開業
『むさしや』創業は明治18年、元々は旗本の末裔の家柄だったが明治の階級制度の改革により侍をやめてふかしイモや煎り豆などを売り、商売を始めたのがはじまりだという。
商売は形を変えながら屋号とともに代々受け継がれ、現在は四代目となっている。新橋で商売を始めたのは、今のビルの場所に家があり住んでいたので、ビルの竣工と共に現在の店舗で商売を始めたのだという。
当時から今と変わらない約3坪のスペースで当初は、ソフトクリームやハンバーガー・中華料理など色々な商売を試してきたという。現在の洋食を出し始めたきっかけは、3代目にあたる祖父の弟が東京會舘や帝国ホテルなどで洋食のコックをしていた関係もあり、その当時中華を売っていたメニューの中に、洋食メニューを取り入れたのがはじまりだという。そこから少しづつ洋食メニューが人気になり始め、ナポリタンの流行などもあり今の洋食店のスタイルになったのだとのことだ。
メニューで一番人気があるのが、こだわりの『ナポリタン』と『オムライス』だ。たっぷりとバターを使用し、来店する多くの男性客層に合わせて量が多く安い。
カウンター6席の店には、ランチの時間帯になると20人~30人の行列が出来る。来店客の8割~9割は新橋で働くサラリーマンだという。「うちに来るお客様は8割~9割が働く男性客。時間がない中、使えるお金も限られる中なるべく待たせない事、お客様の期待を裏切らないことを心がけています。そしてお腹いっぱい食べてまた元気に仕事をしてほしい。」そう5代目にあたる鈴木昌樹氏は語る。
5代目にあたる鈴木氏は、大手の飲食レストラン企業で経験を積んだ後、実家の店に戻り4代目と身内で店を経営している。「商売をするには小さく効率良く運営できるところが良い。大きい規模の店はどうしても無駄が出てしまう事が多い。」「まだ先の話だが、ビルの建て替えも決まっている。ただ移転しても今の店の規模やスタイルは変えずにこれからもやって行きたい。」と今後もお客様のために店と味を守っていくということだ。
従業員を自分に惚れさせ、客が従業員に惚れる。
跡部 美樹雄 氏
レストラン2009年開業
現在餃子とワインの店・熟成肉の店を手掛ける跡部氏の飲食人生は、意外にも寿司屋から始まっていた。専門学校卒業後、寿司が好きで寿司店へ入店。その後割烹料理店など含めて10年ほど板前として活躍した。
板前時代には腕に自信があった跡部氏だが、包丁を離した時、PC操作・事業計画など、初めて自分の出来ないことの多さに驚いた。その後、コンサルティング会社などを経て、たまたま友人に紹介された物件で「餃子焼専門店 立吉(現在の店の前身)」を立ち上げた。
この頃、経営やビジネスに関する知識は持ち合わせていたが、なかなか思うような売上ではなかった。月々多額の返済に追われ、もうだめだと思った時、跡部氏の目は不思議とお客様ではなく従業員に向いていた。立吉の売上が伸びたのはそこからだ。開店当初平均230万程度だった売上が、最高580万円まで伸びた。
この時変わったことと言えば、恐らく従業員の意識だろう。従業員は跡部氏の言葉を受け、お客様に愛される従業員を目指した。
跡部氏の従業員教育は激しいツンデレだ。「お前はお客様に何が与えられるか?与えられるものがないなら帰れ!」こんな言葉を浴びせられた従業員は、やはり離れていく者も多かった。しかし、この言葉の裏に込めた想いは熱い。「ここで働くことが目的ではダメだ。何を求めて働くのか?」このようなことを跡部氏は問いかける。
跡部氏の言葉の裏には必ず「誰かのため」が含まれている。「肉を学びに働きに来るのではなく、家族の生活を豊かにするために働くんだ」 「お前のミスであの客が来なくなっても良い。だがお客が来なくなって売上が減ったら、仲間の給料が減るだろう!」こうした言葉で従業員は一人一人が強くなり、自立をし、結果として組織が強くなっていく。
跡部氏にとっては、餃子や熟成肉は稼ぐためのツールであり、店舗は手段。だが、やはり元々の職人気質からか餃子や熟成肉の開発は研究そのもの。今後については、店舗展開はやりたいスタッフがいれば・・・ということだが、跡部氏自身は熟成肉を世界一にするために戦略を立て、進めている。
従業員がお客様に愛される。自分はそんな従業員に格好良いと思われる、光を放つ存在で居続けなくてはならない。昔感じた板長への想いに近いかもしれない。しかし、今はそれを超えたと自信を持って言える。光り続けるために、跡部氏はいつも全力だ。
「スイッチをONにしたら、スイッチをOFFに出来ないようにぶっ壊せ。」これから開業するなら、どんなことがあっても諦めるな、必ず答えはそこにある。やるんならやれ!有言実行出来る奴だけが勝てる。この厳しい言葉の裏にも、負けて欲しくないという優しさが感じられた。