北海道の先輩経営者からのメッセージ
あきらめない、楽をしない、自分なりの楽しみをみつけること
西脇 勝幸 氏
和食店平成23年9月
地元・大阪の調理師専門学校を卒業後、新地で修行。その初めての修行先だった店の親父さんに憧れ「いつか自分の店を持つ」と思ったそうだ。新地で約5年働いた頃、北海道余市のホテルに料理長として招かれた先輩から一緒に来て欲しいと誘われ、北海道へ。その後、その先輩がすすきのでお店をオープン、そこで3年勤める。お店を持つまでに、札幌で3軒ほど修行し、念願の自分の店「割彩 にしわき」を開業。店を持つ前に働いていたお店のお客様の応援もあり、来て頂きやすいように分かりやすい場所、というのが物件を探す一つの条件だった。
前の店のお客様が来てくれたが、それでも定期的に広告を出した。インターネットの広告や雑誌などに出すと30代後半から50代の男性が来店。リピーターとして今でも来て頂くお客様も多いようだ。
北海道に来て衝撃を受けたのは「うに」の美味しさ。ほっけなども素材の違いに驚いた、と、今でも、そのときの感動は記憶に残っているようだ。
お出汁には、こだわりを持ち、やはり出身である関西の味。
寿司屋を営んでいたお父様は旬の美味しいものが出るとお客様ではなく、まずは子供たちに食べさせてくれた、食べ物は贅沢をさせてくれた、そのお蔭で少しは口が肥えたかもしれない、という。
お客様には居心地の良い店でありたい、笑顔で帰っていただきたい。苦しい時は、あきらめなければ何とかなる、手を抜かずにいれば、お客様が何かを感じ取ってくれる。楽をしてお客様が喜ぶはずがない、という。そして人と人とのつながりが大切、と語りながら、若い頃には親方はもちろん先輩たちも多いし、大変なことが沢山ある。しかしその中から自分なりの楽しさを見つけることが大切。先輩の仕事を見て興味を持って取り組むこと。やらされている、と思っていると、自分が修行している仕事を忘れる、と語る。
この仕事が好きだから健康を第一に「生涯現役」を貫きたい、と板前に立ち続ける。
自分で蒔いた種は自分で刈り取る
大門光宏 氏
そば1987年創業
創業1987年の老舗そば店に修業に入ったのは1992年のこと、当時はオーガニックをテーマとして独立開業を目指して働きながら、また、いつか役立てようと、そば打ちを習いながらビジネスモデルを模索している間、時はオーガニックという言葉とともに大手企業が参入を始めており個人が出店するには厳しい戦いになると考え、そのまま修業を続けた。そんな中、師匠であり経営者の店主が健康上の理由で現場に立てなくなり、女将さんと色々な相談していく中で、自分自身が原料の在庫がなくなるまで運営することとなり、現在まで至っているとのこと。正式な経営移譲は6年前、当初は資金調達の面で苦戦したが、麺組合の方々から様々なアドバイスを受けて借り入れることができたそうだ。看板メニューは、初回来店者のほとんどが食べるという冷やし系のそばは、先代から引き継いできた本格派で「そば屋が選ぶ一番行きたいそば店」に選出されたほどの人気だ。お店のコンセプトは先代の師匠から継承されてきた「本格もりそば」を堪能できるお店だそうだが、昨今のニーズの多様化を踏まえて、基本路線は踏襲しつつ新たな試みにもチャレンジしている。 経営で大切にしていることは「人(お客様・スタッフ)・モノ(お店・設備・原材料・商品)・お金(管理)全て」とのこと。今後は現在のお店で主力のそばの品質を上げる努力を重ね伝統を守りながら、そばの可能性を信じて新しいジャンルの商品開発にも挑んでいくとのこと。これから始められる人には「自分で蒔いた種は自分で刈り取る。」という意識で経営に臨んで欲しいとエールを贈る。
蕎麦の新しい可能性で人々を明るくする、喜んで頂く。
荒川 知 氏
そば2013年開業
札幌の老舗そば店にて修行を積み、そばの健康効果で多くの方を幸せにしたいとの思いから福島県にて2002年そば店を開業した。2011年に北海道に移住し、2013年に現在のお店を開店した。このお店のコンセプトは「“カレー南蛮”や“丼物”まで楽しめる、そばファミレス」。玄そば脱皮からの石臼自家製粉と手打ちという本格そばを中心としながらも豊富に取りそろえたメニュー構成とし、幅広いお客様の多様なニーズに応えようとしているそうだ。現在の店舗を開店した時は運転資金が足りない中でのスタートとなり資金面で苦労が多く、お客様に認知されるまでに時間が掛かかり、周囲からも閉店したほうが良いと言われたそうだ。しかし「絶対にやめない!」という強い意志と信念を持って改善に取り組んだ。原価を気にするのではなく自分で選んだこだわりの原料にし本来の味を追求していったそうだ。そんな折、夕方の有名TV番組の「新そば特集」で、そば通アナウンサーのレコメンドで取材を受けたことと、食べログの評価・コメントから徐々に火が付きお客様が増えていったそうだ。経営者として大事にしていることは、料理がうまいのはもちろん、接客と雰囲気作りの総合力で、とりわけ「人」を大切に考えているとのこと。今後は、さらに腕に磨きをかける努力をしながらも他業態飲食店とのコラボや、新店舗の運営、物販なども視野に入れた活動を行っていくそうだ。これから始められる方には、「確信・自信があれば壁を突破するまでは努力し続けることが大事」とエールを贈る。
お店は種まき。根がはえるか分からないが待つことが大事
中川 学 氏
イタリア料理平成18年4月
電気工事技術者だった自分が「自分で何かやりたい」と思ったのは、やはり電気工事会社を立ち上げたお父様の起業精神を譲り受けたのかもしれない、と語る。
28歳で調理人を目指し、調理師学校に入学。卒業後、年齢的にどこも調理人として雇ってくれるところはなかった。サービスで働き、そのうち調理場へ、と思い4年働いた頃、働いていたイタリアン店のオーナーのバックアップをいただき、開業へと動き始める。
そのオーナーが店で使っているのと別に所有していた中古だが厨房機器などを、ほぼ無償で譲り受けた。
「イタリアン料理とワイン ラ ノッテルーナ」を開業させたのは、旭ヶ丘の手前という交通の便は決して良いところではない。しかしその頃、イタリアンは郊外型が人気、ステータスも高く、敢えてその場所を選んだ。メニューを考えることも、ワインを選ぶことも楽しいことだったという。オープンしてから唯一大変だったのは「人」。スタッフを使うことが一番大変だったという。
オープンして数年が経った頃、郊外型イタリアンの衰退や時勢の変化を感じ始め、余力のあるうちに移転しないと、と札幌中心部で物件を探し始めた。一軒家だった店を考えるとビルの地下など敬遠したが、今の店となる物件を見た時、割と良い物件だと直感したようだ。家賃が安いのも決め手だったと語る。
移転当初は広告費を結構使ったようだ。その雑誌会社の美食店を集めた雑誌に3年連続掲載されると、それを見たお客様が来店、そのままリピーターになった方が多いようだ。
大切にしていること。それは「ブレない」ことだという。昔から日本にあったイタリアン。そしてお客様が食べたい、というものを作る。既製品は使わず、全て手作りにこだわるのも自然が当たり前、普通に美味しい、ということがベース。多少変えることもあるが、同じものを同じように同じ味で作る、そんな普段使いされるお店が良いと語る。
世の中は甘くない、でも夢を現実にすると決めた
辻 友和 氏
パン屋平成29年1月
学生時代、パン屋さんの製造部門でアルバイトしたことがきっかけで、卒業とともに社員となった。それから20年ほど経った頃、自分の作るパンが、お客様にどこまで評価いただけるのか、美味しい、と言って頂けるのか、チャレンジしたい、と考え始めるようになった。でもパン屋を開業して失敗するかもしれない、と不安も大きかったようだ。
そんな折、リーマンショックが起こる。百年に一度の大不況と言われたが、それもまたチャンスなのかもしれない。さらに東日本大震災。日本が大変なことに直面した、でも、これからは前に進むしかない、辛いことの後には良いことがある。そんな前向きな思いが脳裏を駆け巡る。現実を考えると、二人の子供が、これから大きくなっていき、自分はチャレンジ出来る余裕がなくなる、そして40代になるとガクンと体力が落ちる、そんな先輩たちを見てきたから自分はそのピークのときにはオープンしていないと無理かもしれない、今しかないかもしれない、と。さらに一緒にパンを作っていた職場の友人が東京で修業して10年ぶりに帰札。東京での修行の話や将来の話など、大きな刺激となり、決意したようだ。
物件を探す際に一番気を付けたのはパンを焼く機材。大きな音が上に住むひとへ迷惑をかけること。平屋か2階も事務所として使える住居を探した。
そして、ついにパン屋「ヴェールクレール」をオープン。当初は宣伝も出来ず苦しかったが、少しずつお客様が来店、そしてリピーターになってきてくれた。オープン5~6か月後には借り入れも出来、資金繰りも落ち着く。その数か月後には人の繋がりでイベントに出店し、そのときに作成した“のぼり”を店頭に立てると、それがアイキャッチとなり、客足も伸びたようだ。
今は、売上を伸ばすことに追われているが、将来は夢だった片田舎でのんびりとパン屋を営むことは難しいかもしれないが、生産者の見える野菜や食材を使ったパンを作りたい。そして海外進出も視野に入れ、そのために何が出来るかを考えながら、パンを作り続ける。