北海道の先輩経営者からのメッセージ
【人】とのつながりで今がある
茶木 雅子 氏
カフェ平成24年7月
もともとお店を持つ気は無かった、と語る。
旅行好きが高じて札幌のOLから沖縄に移り住み、ホテルの宿泊予約の係として勤務し沖縄を満喫していた。ところが予約の仕事と違いレストランのスタッフたちは直接その場で「美味しかったよ、ありがとう」と声をかけられる、そんな商売に就きたいと調理師専門学校へ進んだ。
料理関係の店に勤めたいと思って入ったが、製菓の面白さに気付く。そして製菓の仕事に就こうと思うと、沖縄の就職先は少なく、色々な事情や条件を考え、札幌へ戻ることになる。
札幌では3軒ほど勤めたが、いつしか「自分でやるしかない」と思うようになっていったようだ。
カフェ開業の本など読みあさり勉強したつもりが気づくと『てぃーだMcafe』、オープンの日を迎えていた。
「美味しかったよ、ありがとう」と言われることを夢みて職人になったのにレジ打ちから経理の仕事まで。ケーキを作る時間、ランチを出す余裕もないなど「橋がないのに渡ったようだった」そうだ。それでも続けてこれたのは友人知人の協力があってこそだという。自分の空いてる時間にエプロンや弁当持参で手伝いに来てくれる人、除雪を手伝ってくれる人、高価な果物が手に入ると「これで美味しいケーキ作ってよ」という常連さんなど、そのおかげで今でも続けていられるという。
出来る限り素材にこだわるその理由は明快「自分で食べるから」だそうだ。何か分からない油を使うよりオリーブオイルを使う方が良いとか、自分にとっては単純なこと。
『自分=家族=お客様』だという。「食べて心地良いもの」自分で作ると砂糖やバターがどれだけ使うかが実感して分かる。
お客様の「ありがとう」「美味しかったよ 」という言葉が白飯のおかずになる、そう思えるから続けられる。「OL時代のお給料から比べたら今は子供のおこずかい程度で大変なんです。」そう言いながらも、今の方が幸せだと感じる、と語る。
体調を崩した自分がこだわるカレーを届けたい
盛合 でぇすけ 氏
カレー店平成28年1月
お笑い事務所に所属する異色な飲食店オーナー。その名も【札幌朱カリー「ついDEにあそこ」】。
専門学校時代に行っていた飲食店のアルバイト先に学校卒業後、そのまま契約社員として入社。その後、店長となり『カレーラーメン』の開発を任された。
カレーが嫌い、そしてラーメンも嫌い。どちらも嫌いな自分だが、嫌いな自分でも食べられるものを作ろう!と色々食べ歩き。そして完成させた商品は、ヒットしたようだ。
その後、様々な職種なども経験し、いよいよ自分の店を持つことに進む。
物件は悩んでいる間に第一希望を別な人に決められて後悔、第二希望は、その教訓から逃さないように早々に決めたようだ。それでも向かいに生協があり、家賃が安い、そして路面店と条件は納得していた。
朱カリーの“朱“は 体に良くて優しくコクがあるようにトマトを多めに使ったら赤くなったから、そして朱肉の捺印する際の「これに決めた!」という意味も込めた。
飲食店や他業種での経験と知識はあるものの、お金を借りる方法、外装や内装など自分では分からないことだらけ、分からないことは聞くしかないと、知人の紹介でコンサルタントに頼ったそうだ。
飲食店を営んでいる知人や友人からは、とにかく3年我慢し、集客と利益を作ることが大事とアドバイスをいただいた。そのアドバイスがなければ、店を続けていなかったかもしれないという。
食材は北海道産にこだわるが、どうしても現状では、肝心のトマトだけが加熱に適するトマトがなく、イタリア産を使っている。いつかは日本、そして北海道産のトマトを使いたい。
さらに、店舗も増やしていきたい、お世話になっているテーマガーデンのブランド肉とコラボし、芸人だからこその“カレーと芸人のセット売り”が出来ないかと熱い思いを語る。
子はかすがい=お客様はかすがい
大久保 智康 氏
居酒屋平成16年3月
食べることが好きで小学生時代から調理クラブで腕を振るっていた。もう既にその頃には自分の店を持つ目標が出来ていたという。
宮城県から北海道の大学へ。学生時代から調理場でアルバイト、小さな頃からの目標だった自分の店を持つため、卒業後は、そのまま調理の世界へ入る。目標は『30歳にはお店を出す』。まず和食の修行、そして居酒屋も経験し、色々な勉強をするため声をかけて頂いた洋食のお店などでも修行した。
お店を出す、という目標を知っているお義父さんから「空いてる物件あるよ」との言葉に直ぐに反応。ビルに入っているお店やその物件に足を踏み入れた時の印象などから、そこに決めた。そして何よりクーポン誌が人気の当時は、それを出せば大丈夫、とすっかり安心していたようだ。そしてその通り1年くらいは順調だったという。
ところが札幌駅が再開発され、飲食店が札幌駅周辺にドンドン出来てくると、お客様の来店が少なくなり、飲み放題や会計金額から○%引き、ビールも1杯○円。そして、目玉商品でうにや鮑を出す。クーポンも激化していった。
そのうちに、安売りだけじゃダメだということに気づく。気づき始めると、お客様と会話が増え、その会話でお客様が、そしてリピーターが増えてきたという。さらに10周年を迎えた頃、お客様が自分の店『居酒屋ほがら家』を認めてくれたような気がしたそうだ。
この仕事が大好きでお店をやらせてもらっている、お客様の大切なお金をいただくのだから、喜んで帰ってもらうのがベスト、それでも最低限、お客様に迷惑をかけないことが信条。食器など洗うものはキレイに洗うとか当たり前のことを当たり前にやることが大切。今は一緒にお店をやってくれる奥様とお客様との会話を楽しんでいるようだ。そうして自分たちも成長させてもらっている、と語る。
愉しく飲んでいただく、ただそれに尽きる
沼里 一久 氏
バー平成26年9月
ITのプログラマーを横浜で4年。自分にとっては「しっくりこない、何かが違う」と思っていた頃、先輩に連れて行ってもらった銀座のバーで「バーテンダー」という道を見つける。
そして故郷・札幌に戻り、ホテルのレストランでサービスを学び、半年後、偶然 “バーテンダー養成講座”を知る。
その養成講座で見習いとして行った札幌でも老舗のバーに、その後も勤めることになった。そして気づくと25年。色々な事情で長く勤めたが、それも一区切りつき、当初の目標である自分の店を持つことを決断する。
お店の場所を決めるまで約5カ月を要した。希望する広さ、そしてバーだけれど16時からオープンすることを決めていたので夕方でも人のいる立地。
さらに自分が入るビルにも希望があった。“ビルのエントランスがきれい” “古くても掃除が行き届いている” “貼っているポスターなどの剥がれがない” “トイレのきれいなところ” “人通りの多いところ”この条件を満たしてくれたのが、今の場所。
以前、勤めていた店のお客様も多いが、規模の違いなどで来られないお客様もいるようだ。それでもネットの情報で20代のお客様も来店される。理由は大きい店だと緊張するからだという。
愉しく飲んでいただくために、まずは自分が愉しく仕事をする、お客様の求めていることは、それぞれ違うもの。時として、違うバーを紹介することもあるようだ。
一番嬉しかったのは、何十年も会っていなかったプログラマー時代の友人が1杯飲みにだけ東京から駆け付けてくれた「お前の店で飲むのを楽しみにしていた」と。そして前の店で何年も来られなかったお客様が来てくれたこと。そんな人の繋がりが嬉しくて、そして何より、この仕事が大好きなので、出来る限り長く続けたい、と語る。
今、思いつく限りの「やれること」を全てやる、それでダメなら諦めもつく
上田 英昭 氏
和食店平成16年7月
高校生の頃、独立を夢見た。自分で作ったものが、どのような反響になるのか、調理師として、そこを目指すことを考えたそうだ。
卒業後、和食店に入り、その後、数軒店を移り修行を重ねる。最初に働き始めた時、自分で色々なことを考えなくてはいけない、そして結果が出たら評価される、そんなことを教えてくれる先輩がいた。仕事が楽しい、そして生きているという実感が湧いた瞬間だった。
独立は30歳前後でと考えていたが、独立をしていった人たちを見ると想像以上に大変なことだと二の足を踏んでいたが、40歳を超えた頃、失敗を恐れ何もしないと何も変わらない、何も出来ずに終わる、と思った時、奥様が背中を押してくれた。一緒にやってくれるという。その言葉に励まされ、開業を決意したそうだ。
時間が長くて、給料が安い、人が遊んでいるときにも働いている。決して甘い世界ではない。それでも人とのつながりを実感出来るとやりがいが生まれ、そして楽しみや喜びが分かってくると、この仕事を続けられる。人と話すことが苦手でも、お客様が色々と教えてくれる。開業から10年ほどは苦しいことが多かった。それでも、お客様に恵まれ、励まして頂き続けていられる、という。
お客様はリピーターであっても色々な事情で顔を見ることがなくなる方も少なくない、雑誌などの小さな広告でもお客様が来てくれれば嬉しい。何もせず、だまっていると減っていくので、続けていこうと思う、という。
折角、来てくれたお客様。納得していただき、喜んで笑顔になって帰っていただきたい。と語る。会社の宴会で来られた方が、美味しかったと家族で来店、親子で来られていた息子さんが社会人になったと自分で来て頂くこともある、という。
自分の料理を確立していきたいという想いからつけた店名「新和食 月河(ムーンリバー)」。今も変わらず、お客様の喜ぶ顔を思い浮かべながら自分料理を考え続ける。