北海道の先輩経営者からのメッセージ
会社勤務時代と重みが違う言葉“お世話になっております”そして“ありがとうございます”
金山 和裕 氏
レストラン平成27年12月
テレビ局や広告代理店の会社勤務を経て、2015年にバー&カレー「金のらくだ」を開店。会社へ入社数年後よりお客様からお金を直接いただける仕事がしたい、と思いながらも転勤、転職を続け、ついに飲食店開店を決めたと語る。小さな頃からカレーが大好きで会社勤務時代あちこち食べ歩いていたとき「カレー博士」として雑誌などメディアに呼ばれたことも。そんなカレー好きが高じて飲食店をやるなら「カレー」は必須、本当は喫茶店をやりたかったそうだが、修行もしていない素人では潰れると思ったという。 店舗を決めるのに一番困ったのは立地と家賃。希望する場所は家賃が高くライバルも多かった。すすきの36号線を南に越えると一変、途端に家賃が安くなったと語る。カレーにこだわったのはカレー好きもあるが「カレーがあれば食欲が出る」「カレーは、どんな食材でも使える」という理由。ところが場所は「すすきの」そしてカレー、ランチ客はいない上、夜に営業をするのは奥様との約束も反故することになり大反対されたようだ。それでも色々な条件を考えると場所はそこしかない、さらに管理会社が自分たちで改装するなら家賃を安くする、と。イニシャルコストよりランニングコストが安いほうが良い、と踏み切ったと語る。お蔭で内装は、自分たちの好きに出来て良かったと話し、デザイナーや根負けした奥様から女性に好かれる店作りを念押しされたようだ。 場所柄お酒をメインに、そしてカレーを出す店と決めた。原価は大切、余っても困ると、おつまみは12種程度。日持ちの良い缶詰を置いてみると“缶詰バー”とからかわれることもあるが意外と評判が良いという。喫茶店をやりたかった思いが残り、店内には漫画の単行本やファミコン、ダーツ、テレビもある、女性ひとりでも来られるようにとカウンターにも配慮をおいたそうだ。 会社勤務時代は、仕事柄、コンセプトをもっと明確に、などとお客様に伝えていたのに、自分の店は色々詰め込んだらコンセプトが無くなってしまったと笑う。 お客様は会社勤め時代の友人知人がほとんどを占め、他は学生時代の友人だという。その人たちが連れて来てくれた人が、また新たなお客様に繋がっている。お客様がたくさん来て繁盛したい反面、今の雰囲気を崩したくない、今、来てくれている人の再来店や、もう1杯飲んでくれることが多くなることが目の前の目標と語る。
腹をくくって、やぶさめのように一発勝負で絶対に的に当てる思いで開業
代表 岩間 鉄兵 氏
居酒屋平成22年開業
居酒屋の店長を5年務め、さらなるステップアップとして自分でやってみたいという思いが生まれ、7年前に独立した岩間氏。小さめでお客さんと身近に接することができる密着型のお店を裏路地でやってみたい、と開業した。
当時は、女子会ブームの時代だったが、あえて昔ながらの酒場のような料理を食べられる、ちょっとおしゃれなお店にしたいという思いで、小上がりもカウンターの椅子も手作りし、店内の装飾も流木を拾ってきて作るなど、約2か月かけて自分で手掛けたそうだ。
ここまで継続してこれた秘訣としては、高校時代からの接客経験や、東京で美容師として徹底して叩き込まれた接客技術が今に生きていることを感じている。常連のお客様が多く、お客様に支えていただいていると感謝の気持ちを忘れない。
午年生まれの岩間氏が、やぶさめのように馬に乗って走りながら一発勝負を絶対に一発で決めるという強い思いを持ってつけた店名のとおり、腹をくくって絶対に成功する、絶対に的に当てるという気持ちが経営者としては大切だと語る。
こから始められる方には、経営する以上は売り上げを作るというお金のことは大事だが、楽しんでやることこそ、結果につながることに目を向けてほしい。人生の半分以上はお店に使うのだから、その時間は自分がやりたいことをやれる、こうやったらこんなお客さんが来てくれるかな、とワクワク感をもって、楽しく考えながら、がんばってほしいとエールを贈る。
色々な経験は人生勉強。それが今を作ってくれた
星賀 寛 氏
ダイニングバー平成11年開業
調理人としてホテルニューオータニ札幌のフォーシーズンを皮切りに東京のフレンチレストランなどでも修行。札幌に戻り知人のレストランを手伝う中、思い立ってオーストラリア・シドニーへ。ジャンルは違うが言葉の通じる和食店で調理人として働きながらシドニー大学の語学研修所で英語を学んだという。そんな中、クラスメイトからインターショナルレストランのオープンでスタッフを募集している話を聞き、そこで働き始める。日常会話は出来るようになっていたが調理場では忙しくなるとブロークンになるため意味が分からず言葉の壁で相当、苦労したようだ。そんな調理場にも慣れ、永住権申請中に日本へ一時帰国。そのまま戻ることはなかったという。自分の店を持つことを夢に知人の店で働いていたとき、料理は作れるが接客や経営の経験は全くないのに、そんなことで本当に出来るのか、と恐怖を覚えた。勉強できるところはないか、と探していたところ、当時、接客にも力を入れ話題のチェーン店が店長候補を募集しており、思い切って飛び込んだと話す。右も左も分からないところから3年ほど勤務したが、この経験がなかったら、今頃どうなっていたか。そこで鍛えられ、今となっては本当に良い経験をさせてもらったと語る。その後、他店舗への異動話をきっかけに自分の店の開業に向け、本格的に動き出す。店を出すことを予定していたので、自己資金作りに余念なく、自己資金のみで開業させたという。借り入れをすると後で大変なことになる、という思いだったそうだ。 料理、接客そして経営は学んだが、たったひとつ勉強しなかったことが「立地」。開業後、精神的に一番辛かったのが、お客様からの「なんで、この場所なの?」という言葉だったという。友人やその知人、タクシーで来店してくれるお客様など、徐々に常連さんも出来、考えていた移転は思い切ることが出来なかったと話す。1日にお客様が1人とか2人とかしか来ない週もある、でもその次の週には沢山のお客様が来てくれる。トータルで目標をクリア出来れば良い、浮き沈みに一喜一憂はしない、小さなモノの見方をしない、そんな風に考えるようになったらメンタルが楽になった。それも、お店には一切出ていない奥様が色々な面でサポートしてくれるから、と語る。 平成11年「洋風居酒屋Soul&Spice」としてスタートしたが、お客様から何がウリなの?と聞かれ、試行錯誤。現在の「Pizza Pasta創作料理Soul&Spice」と店名を変更、生地から手作りのピザがウリ、と明確になったことも今の経営に繋がっていると語る。
自分を楽しむ、良いサイクルのところに良いものが集まる
冨士原 慶宣 氏
ダイニングカフェバー平成11年開業
料理が好きで調理師学校へ。卒業後はレストラン開業を目指しながら色々な飲食店で働いたりしたが、音楽好きもあり、一時期、音楽バンドの道へ。カフェで働き始めた時、コーヒーの魅力にはまったという。念願の自分の店、魅力にはまったカフェ店を平成23年に開業。店名は「コーヒー バー フレンチ」。当初は、立地が良いわけでない上に、知名度もなく、マネジメント経験もなく売り方も経営も分からず、2年ほどは本当に苦しかったと語る。それでも続けられたのは、現在の店でも人気のエスプレッソの粉を入れたカルボナーラやドリアが珍しいと、メディアで取り上げていただいたことも大きかったが、それ以上にお客様がどうしたらリピートしてくれるのか、人からモノを買うということがどういうことなのか。500円のコーヒーでも価値があれば5,000円でも注文してくれる、お客様は、そんなことは分かるんだ」ということを意識して、どのようにして運営していけば良いのか分かってきた頃、軌道に乗ったことを感じたという。そんな頃には店のウリがよく分からない店名だと気づいた、と語る。フレンチはフレンチコーヒーの意味だったのに、お客様はフレンチ料理のフレンチと捉えて来店。しかし気づいた時には認知度も上がっていて変更出来ない状況だった。良い立地に移りたい、規模の小さなお店から、もう少し広いお店に、と移転をきっかけに店名を「自分」にこだわっていきたいと「fujiwara」に変更した。移転後は、コーヒーとワインをメインに、前店でも人気だった“エスプレッソ カルボナーラ”などの料理を楽しみに来店するお客様で賑わっている。営業は17時~深夜1時。それでも〆のラーメンならぬ〆のコーヒーを飲みに来店されるお客様やお料理とワインを楽しんだ後、帰る前にコーヒーを、というお客様が多いという。 6年間お店を続けてきた秘訣は「諦めないこと」と「いかに人生を楽しむか」と語り、いつ潰れても良いと思いながら、そして自分の人生だから自分を楽しく生きている。そうするとお客様は、ついてきてくれる。不安などで悩んで頭を抱えていても何も始まらない。独立した意味もない、と話す。 淡々とそう語りながらも毎年コーヒーマスターズの大会にもチャレンジし、美味しいコーヒーでお客様が楽しんでいただくことに力をいれている。 今は月に1度、ディスコイベントを行っているが、大好きな音楽を絡めたことも今後やっていきたい。少し余裕が出たら経営の勉強や色々なものを吸収するため、海外の色々な国にも訪れたいと、あくなき探究心を覗かせている。
お待ちいただくクレームよりも、作り直してでも美味しいお料理をお出ししたい
廣部 賢太郎 氏
中華平成19年開業
市内ホテルの中国料理店で修行し、今ある環境で投資を抑えレストランを開業させるため、運転資金作りの土台として平成14年に点心の製造工場「美点工場」を開業させた。
その流れもラーメン屋を営む両親の影響だと語る。工場はそのラーメン屋に隣接し、1店舗目の「海鮮中華 宮の森れんげ堂」の開業につながる。自己資金と政策金融公庫からの融資で始めたが、開業当初はお客様の来店も少なく、また山の方だからか、雪が降ると途端にお客様の足がピタリと止まったり、と厳しい状況だったと話す。お弁当の注文や百貨店でのイベント、おせちなどのお声をいただいたり外での売上が上がる中、胃を全摘出した方や病のため食が細く食べられるものがない、添加物が入っている食べ物を受け付けない、という方たちが、れんげ堂のお粥を食べたいと来店いただくなど「心と体の健康」をテーマに広東料理をベースにした中華料理を提供してきたことが、お客様に届いていることが本当に嬉しいという。そして平成26年、北海道神宮内の出店の話がきたとき、色々な制約がある厳しい条件の中でも決めたのは、 10年ほど前から、お粥屋さんをやりたい、出来れば神様のお膝下である北海道神宮でやりたい、と思っていたからだという。経営者としては、その決断は甘いと思ったが、それでもやりたい、と踏み切った、と話す。
その想いは熱く「ちょっとタレが、皿についた」とか「ちょっと味が・・・」などという『ちょっと』などにも料理人として味付けや仕上げなどへのこだわりを持ち、少し待っていただいてでも自店での最高を尽くし、評判を下げることはしたくないと語る。
店名の「れんげ堂」の“れんげ”は、そのカタチが蓮の花びらから由来することからきていること、また蓮は東南アジア地方で祝いの花とされていることから。「白鹿食堂」は、白鹿が神様の使いということから店名としたという。
料理人として店を運営してきたが経営が難しいことを、つくづく身に染みて、今までの状況を、これから同じにはしたくない、経営の勉強をしていきたい、と話しながら、「石の上にも3年」という言葉があるが、本当に何事も、その通りだと、これから出店される方へメッセージを語りながらも自分へも語りかけ続ける。