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飲食店先輩経営者からのメッセージ

すでに飲食店経営者として活躍されている先輩経営者から後輩経営者に向けてのメッセージです。
これから共に飲食業界を引っ張っていく後輩経営者へたくさんのメッセージが寄せられています。

東京都 中央区の先輩経営者からのメッセージ

鮨國

元祖うに丼。でありこぼれ丼という誇り

オーナー國場 美光 氏

寿司
2008年開業

 國場氏が築地に店を構えて10年余り。当時は父親が立ち上げた店だった。「あの頃は東京界隈ではどこにもウニを使った料理や丼ぶりなんて無かった。」ウニ自体産地でもない限りそんなにたらふく食べれるようなものじゃなかったんですよね。

そんなウニをたっぷり載せた元祖こぼれうに丼を名物とした築地鮨國ではあったが、やはり当初は集客に苦しんだという。
「築地とはいえ、やはりお客様はなじみのある大手の寿司屋さんや鮮魚屋さんに入ってしまう。個人ではそんなに広告や宣伝にお金を使うことも出来ず、最初の頃は結構大変でした。」もともと会社員だった國場氏は当初は父と2人で父に教わりながらお店を切り盛りしていた。

土地柄周りはライバルだらけ、どこもそれなりにはやはり賑わいがある。ある日パラパラと埋まっただけの自店の店内を見て、お客様がどこか不振がっているのを感じた。ウチは鮮度も悪くないし、技術でも見劣りしていることは無い。そう自信を持っていた國場氏であったが、お客様からこう言われた。
「築地で一番美味しいお店はどこなの?」
とてもショックだったと國場氏。1番とまでは言わないが、自分達が否定されたと感じとても悔しかったという。
その上オープンしてわずか2年後の少しづつお客様も付き始めていたある日、お店を先頭に立って切り盛りしてきた國場氏の父が脳梗塞で倒れ、半身不随になってしまう。一命を取りとめたことはせめてもの救いではあったが、もうお店に立つことは出来なかった。

國場様はそれでも、妹とともに何名かのアルバイトを雇いお店を開ける決断をしたそうだ。鮨はほとんど父がやっていたこともあり、2年足らずの修業経験では満足いくことも出来なかったが、それでも築地の仲買いさんと少しづつ信頼を積み上げていった。

「当時はまだそこまで外国の方も多くなかった、日本全国から築地に来られる日本人客が8割で、外国の方は2割ぐらい。でも今は違います。」
國場氏のお店では今は実に来店される方の8割もが外国の方だという。
「特に中国の方が多いですね」と國場氏。
「よく中国の方はマナーが悪いなんて言われますけど、中国湾岸部の方はとても海鮮が好き。一年に3~4回見える方、最初は1~2人できて、次は家族を連れて来られる方も大勢います。東京は変わるんだ。ということだと思います。海外の方を受け入れる。それが今後の日本の形だと思いますね。」と教えて頂いた。

「場内(市場)には毎日行っています。仲買いさんなどと信頼関係をつくることで、ウチはこれだけこだわったウニが出せている。ウニだけじゃない。他の海産物も。同じ品種、同じ産地であっても同じ味わいということは無いですからね。」

お店をやっているとさっきまで暇だったのに、急に満席になったりすることがある。最初は慣れないだろうし、オペレーション構築も難しい。最初の1~2年は大変だったが、3年目あたりから徐々に1度来てくれた人が、こないだ美味しかったからまた来たよ。なんて言って2度3度来てくれるようになりました。
「昔からの商売人としてのことわざに「三方良し」という言葉がありますが、そのような精神で取り組んでいけたらいいですね。」という言葉を最後に頂きました。

焼き鳥 久助

普通料金でグリーン車に乗る

オーナー村田 秀章 氏

焼鳥
1982年10月開業

創業は昭和57年。
元々人形町は花柳界として栄えており、そこで両親が料亭へ果物を卸す
卸業を営んでいた関係で、子供の頃から食べ物屋には馴染みがあった。

果物屋をするよりも、食べ物屋をしようと漠然と考え始めたのが
きっかけだったと店主の村田氏は言う。 

「お店のコンセプト、ウリは“入りやすさ”を一番に考えたら『焼き鳥』でした。
ただし焼き鳥だけじゃなく、本格和食も提供したいと考えていました。
キャッチコピーは“普通料金でグリーン車へ” 出汁もひくし、ポン酢から
何から何まで調味料も作ります。」

手頃な料金で本格和食も食べて頂きたいという村田氏の想いが、
このようなキャッチコピーに表れている。

本格和食を提供するためには職人さんの力が必要となるが、
実はそれが村田氏の悩みの種となってしまった。

「開業時はとにかく職人さんに気を遣ったことが一番の苦労話です。」

そう語る村田氏は当時26歳。
弱冠26歳の新人経営者に対し、職人さんの方が年齢は上。

しかし自分は経営者という立場であり、接し方はどうしたら良いものかと
日々頭を悩ませたという。

それでも不思議と「失敗するんじゃないか?」と不安になることはなかった。

最初の数年間は自分自身も調理場に立ち、ホールはアルバイトに任せていたが、
ホールスタッフも色々と間違えれば自分が対応しなくてはならないし、
経営者として帳簿もつけなくてはならない。

この経験を基に「経営者として飲食業界に参入する方には、経営と料理の
両立の大変さを味わうことになると伝えたいです。」としみじみと語っていた。

久助のランチタイムメニューは焼き鳥重1種類のみ。
言わずと知れた看板メニューでメディアにも多く取り上げられ、
2時間だけの営業時間にも関わらずとても人気が高い。

一方で、夜のメニューは和食と地酒を提供している。
開業当初は全国各地の地酒を提供しているところはほとんど無かったので、
とてもお客様受けが良かったという。

このような繁盛店である久助について、村田氏に繁盛の秘訣を聞いてみた。

「最近の飲食店オーナーさん達は、食事をしようと思ったら自分の店ではなく、
他のお店に行くことが多いと聞きます。でも、私は自分の店で食べたいと
思っているのです。自分が行きたいと心底思える店でなければお客様にも
自信を持って受け入れることが出来ないと信じています。」

他店に視察に行くことは勉強になると思うが、まずは自分のお店が一番だと
思えるようにするというお客様目線に立った経営者の姿勢が伺えた。

さらに経営する上で最も大切にしていることを尋ねると、
「やはり、お客様にもう一度来たいと言ってもらうことです。
勝負はお店を出てから。外で『良かったね。また来よう』と言わせることです。」
とのこと。

店の中で言われても社交辞令の可能性があるため、店の人がいない場所で
言ってもらえることが大切だという。

村田氏としては今後店舗展開したいと思っているわけではなく、どちらかと言えば
家族との時間を大切にしたいと思うこともあるという。

今の時代は人不足なので大変な時代になったと前置きしつつも、
「商売はやろうと思えばいつでもできますから。」という言葉に長年繁盛店を
経営してきた経営者としての自信が感じられた。

株式会社チョティワラ Dhaba India/GURGAON/Khyber

開業の先にあるもの

オーナー宮﨑 陽 氏

カレー
1994年開業

宮﨑氏とインドにつながりが出来たのは、今から数十年前。
旅行会社に10年勤めていた時、添乗員の仕事でインドを訪問したことがきっかけだった。

元々喫茶店で独立開業しようと考えていたが、当時単価の安いチェーンのコーヒー店が
増えたため考え直し、「素人開業するならお客様の前で料理するよりも、
仕込みに比重が大きいカレーが向いているのでは?」
と考え、そこで本場のインドで食べた美味しいインドカレーが結びついた。

当時は夫婦二人で開業するのに、到底銀座など物件の貸し手は見つからなかったが、
たまたまビール会社とお付き合いのある不動産屋さんが一号店となる銀座の物件を見つけ、
ついに開業に向かって進むこととなった。

開業するにあたっては、奥様が3年間インド料理の研究家に弟子入りし、さらに宮﨑氏自身も
1年間赤坂にあるインド料理店の店長として経験を積んだ。

そのインド料理店で出会ったインド人コックの友人を一人日本に呼び、
宮﨑氏自身も調理をしながら、夫婦で一号店をオープンした。

インドから連れてきたシェフのため、この店の開業のためにインド料理を数年かけて
学んでくれた妻のため、開業後はひたすら寝る時間を削り、働いた。

慣れない仕込み作業に時間がかかり忙しい毎日だったが、それでも楽しかったという。

一店舗目が口コミでお客様も定着して安定してきた頃、インドにある他のメニューを
紹介して楽しみたいという気持ちで、異なるコンセプトの二号店を開店した。

現在繁盛店3店を経営する宮﨑氏に今後の展望を伺うと「味・雰囲気・サービスなど、
自分の納得できるレベルを維持管理して行くには、自分には3店舗が限界」と、
3店舗以上は増やさないつもりとのこと。


宮﨑氏が経営する3店では独立開業希望者も働きに来ることがあり、
「開業したい!というやる気のある人と働くのは楽しい」と語っていた。

店には特に隠し事もなく、学びたい気持ちがあればレシピなど何でも教えるという。

「お店では料理だけではなく、接客やお客様とのつながりなど、
様々なことを学んで欲しい。レシピを持ち逃げされても構わないが、
そんな縁を大切に出来ない人は商売が上手く行くわけがない。」

このように語る宮﨑氏は経営者の仕事についても語ってくれた。

「価値の創造と分配」
「経営者の仕事とは、価値を作ること。新しい価値を作れば、
お客様はお金や笑顔を返してくれるので、それをこの店に関わる全ての人と分配する。」


驚いたことに、この“分配”については業者さんにもWinであって欲しいという想いから、
値段が極端に高い時以外は仕入れ先に値段交渉したことが無いという。

最後に、これから開業を希望する人に向けてこのようにメッセージを送ってくれた。

「自営業者の商売はライフスタイル。
どうなりたいかよりも、どのような存在でありたいか。
自分にとって何が幸せかを考え、商売のイメージと結び付ければ良い。
お金だけのためや、主になりたいという考えだけではそれを達成した時に
飽きてしまって続けられないと思います。」

宮﨑氏にとっては繁盛することがゴールなのではなく、その先にある
自分の幸せや関わる人達の幸せがゴールのようだ。

萬福

下町の温かさやつながりを大切に、毎日気軽に通って頂ける店を続けていきたい

オーナー三代目 久保 英恭 氏

ラーメン
創業1929年

 昭和4年創業の庶民に愛される老舗中華そば萬福。店のたたずまいは、老舗の歴史と長く地域でお客様に愛され続けられてきた古き良き磨かれた雰囲気が感じられる。
 
 時代は変わっても、基本的なレシピは創業時から守り続けているという。店の看板メニューの中華そばは、醤油スープに細麺とチャーシュー・なると・ほうれん草・メンマ、そして特徴的なたまごがのっている。一見シンプルながら、ひとつひとつに手を抜いていない磨かれた味わいだ。
 現在は三代目の久保氏が祖父からの創業時の味を受け継いでいる。

 『私も幼いころから祖父の仕事をする背中を見て育ってきました。本当に休みなく良く働く祖父でしたが、商売の楽しさや日常の中での幸せな姿をみてきました。』『私自身は店の手伝いを幼いころからしてきましたが、本格的に家業として店を引き継いだのは20代半ばでした。』そう久保氏は当時を振り返る。

 『店に入るようになって、経営を任されたのは3ヶ月後の事でしたが、その時両親は完全に店を離れて、半年間旅行に行ってしまいました。経営を任せて、その程度で店が潰れてしまうようでは今後も続けられないということだったかと思います。』

『もちろん調理や運営はすべて幼いころから手伝ってきたので一通りできる自信はありましたが、経営をする立場に立って気付いたのは、自分自身が会社や店の一部なのだということです。また職人を使うことやお客様への対応に改めて自分に足りないところを感じることがありました。』

『当初は、常連客から「味が変わったね。」と言われることもありました。それは商品ということではなく、店主がお客様に醸し出す雰囲気や態度、そしてお客様への配慮も含めて足りないことがあるという意味合いだと気づかされました。最初の内はそれがわかりませんでした。本当にその意味に気づくまでには10年くらいはかかったかと思います。』そう久保氏は語る。
店が永く繁盛するためには、人格を身につけ、自分自身を律して商売をするということが大切とのことだ。

『うちの店は、地域の中で昔から通って頂けているお得意様が多くいらっしゃいます。木挽町仲通りという、店のある場所は古くから続く下町です。銀座ではなく下町の中華の店として、お客様には気軽に通ってきてもらえる店でありたいと思っています。』

食事をしてくれたお客様が満足して頂けたか、ひと声かけること、そして下町ならではの温かさや人とのつながりを大切にして、今後も店を続けていきたいとのことだ。

With

あきらめるな!

中尾 伸一 氏

ダイニングバー
平成27年開業

フレンチの修行を得て、様々な飲食店を渡り歩いてきた中尾伸一氏。若い時から独立心が強く、20代で六本木にBARを開業した。
しかし、経営の勉強不足から数年で閉店してしまった!しかし、諦めず数年後同じ志を持った知人と二人で新たな店を銀座で開業した。最初は順調だったが、何時しか共同経営の壁にぶつかりこの店もまた閉店してしまった。料理・サービス、十分なくらい修行してからの独立だったが、経営の難しさに本当に悩んでいたという。一時は、もう飲食業を辞めようかと悩んでいたが「あきらめるな!」という言葉が脳裏に聞こえ、無心で働き、そして現在の「With」を開業した。現在は過去の経験を生かし、銀座の方々から絶大な支持を頂けるお店となった。自分の想像していた事とは異なる事が沢山起きる!辛く苦しい時も沢山ある!しかし、絶対に「あきらめるな!」あきらめないで毎日を全力で過ごせば、必ず最後は自分の想像通りの道が出来ますとエールを贈る。

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