「一日一変化」がもたらす、幸せの連鎖
三浦 正和 氏
ラーメン2009年開業
「なぜラーメンなのか?」と振り返った時、そこに浮かんだのは友達の喜ぶ顔だった。スキューバダイビングの専門学校時代、美味しいラーメン屋を探しては、みんなを車に乗せて食べに行っていた。その時の友達の喜ぶ姿が嬉しくて、ラーメン屋の開業を決意。
実家はもんじゃ焼き屋だったが、ラーメン経験はゼロ。開業決意後に修行先となるラーメン屋選びが始まった。修業先選びのためいくつか店を巡っていた時、たまたま新宿のある有名店の前で、空からカラスが口に咥えていた骨(豚骨)が落ちてきた。それに運命を感じた三浦氏は、「ここで働く!」と決め、門戸を叩いた。
それから気が付けば10年近く。調理のみならず、味の開発・給与決め等人の管理・店舗立ち上げなど、「経営者に近い管理者」としてたくさんの仕事を任せてもらい、成長出来た。もちろん、これは「この店の看板に傷を付けちゃいけない」と日々プレッシャーと戦いながら自ら勉強した結果だ。
そして、入店から10年経った時、自らの店舗を立ち上げるべく退職。有名店からの独立は、メディアにも注目された。開店前から密着取材が入り、開店日の遅れは許されない状況になった。
そんなオープンを1週間に控えた頃、実はスープはまだ完成していなかった。「辛さとシビレ」というテーマはあったが、なかなか納得出来る味に仕上がらず、逆にこのテーマに縛られることとなってしまったのだ。そんな時、また偶然の出来事が起こる。試作をしていたスタッフが棚にあった唐辛子パウダーをスープの中に落としてしまった。本来ならばすぐに捨ててやり直すところだが、この時の三浦氏は違った。「ネガティブにならない。否定はしない。」この考えに基づきスープを口にした時、頭の中で全てがつながった。それが現在のカラシビ味噌らー麺の原点になるものだった。
こうした奇跡にも似た偶然に恵まれた三浦氏だが、現在鬼金棒が繁盛していることは決して偶然ではない。「五感で楽しむラーメン屋」というコンセプトの基、和太鼓の音で耳を、中華鍋から上がる火柱で目を、そしてスパイスの香りで鼻を・・・。お客様は来る前からワクワクし、店内に入りまたワクワクする。そしてあのスパイスの虜になり、再び来店する。こんな仕掛けがこの店には随所に散りばめられているのだ。
これから開業する人へ向けてメッセージをお願いすると、「身近なものを大切にした方が良いのでは・・・・・・・・・ないでしょうか。」と謙遜した様子で答えてくれた。三浦氏にとっての「鬼に金棒」とは、人と人とのつながりを大切にすることで、さらなる自分の力になるということのようだ。
手作りの安心で健康的なおいしさを家族(お客様)に感じてもらいたい!
上村 信一郎 氏
洋食1999年開業
1999年上村氏は35歳の時、武蔵小山に「がぶ」を開業した。家は母親が美容院を経営し父親はカイロプラクティックを経営しており、
小さい頃は自分で食事をよく作って食べていたという。飲食の道に進んだのは、17歳のころ喫茶店のウェイターからはじめ、以降いくつかの飲食店で働きながら独立開業に向けて準備をしてきたという。
今の場所で開業を決めた理由は、店舗が小規模で賃料条件も手ごろであり、地元も近く土地勘があったため、夫婦2人で運営するには良いのではと考えたからだという。
がぶの名物『がぶ丼』は、オーストラリア産の牛もも肉ステーキを塩と秘伝のしょうゆだれで味付け、どんぶりご飯の上にスライスしたステーキ肉がはみ出すくらいに盛られた丼である。当初はサービスメニューとして考えていたが、常連のお客様からの要望が非常に多く、また味や見た目のインパクトから口コミで評判となったこともあり、名物メニューとなったのだという。
「赤身肉なので、脂がしつこすぎずに食べられ、塩胡椒と化学調味料を使わず自家製の醤油だれで美味しく食べて頂けるように考えています。」「人の手でつくった安心で健康的な商品をお客様にも食べて頂きたい。」と上村氏はこだわりを語る。
名物の『がぶ丼』がメディアにも取り上げられるようになり、評判となって今では他のメニューも数種類あるが,8割~9割のお客様は『がぶ丼』を注文されるという。
「ただ調理したものを提供するだけではなく、+αの想いを伝えられたら良いと思っています。」「自分が食べたい物を自分の子供たちや家族(お客様)に食べてもらいたい。」「普段食べている家庭料理よりちょっと上質な日常食を楽しんでもらいたい。そう思っています。」
1度しかないその時の食事を、楽しみに来てくれるお客様のために、毎回が真剣勝負だという。今後も原点の想いを忘れずに、食事ともに心もいっぱいになる店をつくって行きたいとのことだ。
本場讃岐のうどんの美味しさを伝えたい
中村 誠一 氏
うどん2014年開業
中村氏が飲食店開業を志したのは、もともと父親が飲食店を経営していたということもあり自然と飲食の道に進み独立も考えたのだという。開業するまでは、都内のうどん店や居酒屋での仕事で経験を積みうどんの本場香川県でも修業を積んだ。讃岐うどんの店を開業したいと思ったきっかけは、都内の飲食店で働いていた当時の職場の上司に、本場の讃岐うどんの美味しさを聞き、会社の休みを利用して香川に食べに行った際に、いりこの出汁の美味しさや本場の手打ちうどんの美味しさに衝撃をうけたのがきっかけだったという。
「やるなら手打ちの本格讃岐うどんにしよう。そうその時に決めました。」「すぐ次の年に修業先を探しに出かけました。何軒か店を回りながら『ここで働かせて下さい。』とお願いしたりしました。お店の人はびっくりしていましたけどね(笑)」と中村氏は当時を振り返る。
なかなかすぐに受け入れてくれる修業先は見つからなかったようだが、あきらめずに次の年には都内から香川に住む場所を移し、修業を開始したのだという。その後約6年間うどんの本場香川でお店を回りながら手打ちうどんの修行を積んだ。
その後東京に戻り2014年『本格讃岐手打ちうどん なかむら家』を開業した。「本場の讃岐うどんの美味しさをお客様には感じて頂きたい。そのために材料は本場と同じものを取り寄せています。」「香川の製粉所から取り寄せた粉は、ブレンドの仕方や粉の引き方が関東で仕入れる材料と違うため、どうしても香川から取り寄せて使わないと味が変わってしまうんです。」「そのほか出汁に使ういりこは瀬戸内海の伊吹島産を使い、かまぼこやちくわ、たこ天なども香川の老舗蒲鉾店から取り寄せて、本場の味を楽しんで頂けるようにしています。」と中村氏はこだわりを語る。
開業したばかりだが、手打ちで提供される本場香川のうどんの味に、常連客も徐々についてくれているという。まずは地域のお客様に、「本場の讃岐うどんの美味しさ」をもっと知って頂けるように、毎日一歩づつ進んでいきたいとのことだ。
「基本を怠らず、背伸びをせず、現実的に!」
鈴木 英二 氏
中華2011年開業
元々、実家で飲食店を営んでいた事もあり、いつも身近な存在だった。専門学校卒業後、調理師となり、道内のホテルの開業スタッフから、修行を始め、料理の腕を磨き、外食企業などで、様々な業態開発の陣頭指揮を執って来た経験を持ち、多くの飲食店の開店を手掛けてきた。ご縁から、ここならば、勝算あり!と思える物件と出会い、1ヶ月間徹底した立地・商圏・競合店調査を行い、確信を持って、平成23年5月に、“本格的中華料理を、リーズナブルに提供し、安心して、リピートしたくなるお店”「チャイニーズコタン華鈴花(かりんか)」を開店した。磨き上げた麻婆豆腐・担担麺・餃子の3つをメニューの柱に据えた。経営者として注意した事は、“基本を怠らない”、“背伸びをせず、現実的に”、“初期投資を抑える”、“設計図をしっかりと作り上げる”事だ。店作りで大事にしたのは、”店頭告知“で、お客様が安心してご来店して頂ける様に、「分かりやすさ」にこだわり、配慮した。今後は、持ち前の業態開発能力を活かした、異業態の店舗展開を行っていく。
「先味・中味・後味が大事!」
山内 隆史 氏
中華2014年開業
高校卒業後、料理人として、飲食店に就職。「それしか道がなかった。」と当時を振り返るが、尊敬できる師に巡り逢い、どんどんと料理にハマり、お客様をもてなす事への情熱と、料理・接客・清潔感など、全てがお客様の為に、決して手を抜かない姿勢を教わった。ご縁から、札幌の老舗有名ホテルで修行する機会に恵まれ、尊敬できる先輩の下で、5年間にわたり世界レベルの技術と、“食が人を癒し、幸せにする”という思想を学ぶ事が出来た。その後移ったお店で、店長を任され、経営・運営ノウハウと、お客様に対する考え方“先味・中味・後味!お客様の、来店前、来店中、帰られた翌日の事まで考えたお店づくり”という経営方針を受け継ぎ、平成26年、8年間務めた会社から、好条件で、内装譲渡を受け、遂に、長年の夢であった自分の店、 “痺れる辛さと香りが自慢の麻婆豆腐”がウリの「中華バル ゆんろん」を開店した。常にお客様への新鮮な驚きを届ける料理を提案し続け、高リピート率を実現した。今後は、現店舗で、1人の料理人として、お客様を喜ばせつつ、料理教室や、イベント催事などを、正直な経営と笑顔をモットーに展開する。