お店を永く続けるには文化を作り上げることです
オーナー代表 岩澤 正和 氏
イタリアン2012年開業
日本でも屈指のナポリピッツァ職人である岩澤氏に話を伺った。
創業前は大手の飲食チェーン店でカジュアル店の1号店から開発に携わり、
調理技術の指導とFC加盟店開発の事業責任者を務め、実績を積んでいったという。
その当時、ナポリピッツァの世界大会において、2006年・2007年と2年連続表彰を受けている。
日本人としては初めての快挙だった。
「30歳で独立しようと強い意志を持っていました。」
大手でキャリアの実績を積んできた岩澤氏であっても“独立開業”という壁にぶつかったという。
「どんなに実績を積んでいたとしても、経営者としての信用はゼロですからね。」
なかなか出店する場所を提供してくれるまでに到達できなかったという。
そんな中、たまたま降り立ったこの地で出店する運びとなったという。
そこは、かつてチェーン店時代に商圏調査を実施して“出店しない”結論を下した場所だった。
地主さんと会話を交わす中で、岩澤氏の熱い想いに共感して、応援してくれるようになったという。
岩澤氏自身もこの地が個人店に手厚い土地柄というのを感じ取り、
また、これから先もますます発展していくであろう街並みの可能性を見出していた。
美味しいナポリピッツァが作れれば、儲かるという訳ではない。
「プロは技術が出来て当たり前、飲食業は技術よりもサービスの方が大事だと思うんです!」
店舗スタッフには常日頃から、お客様に言われる前に行動するように言い続けてきている。
経営者として一番大切にしていることだ。
もう一つ、経営者の社会的信用を積み重ねるために、“使命感”から取り組み続けていることがある。
食の安心・安全の追究だ。
いかにして、メイド・イン・ジャパンの食材を使って本場イタリアの味を超えられるか?
ヨーロッパの基準に適合した無添加の国産小麦粉を例に挙げれば、開発から導入に至るまでに
軽く5年を要したという。もちろん、いろいろな人たちの協力があっての賜物である。
それでも、そんな血の滲むような努力はアピールして来なかったという。
「だって、ここのピッツァを食べれば、わかりますよ!」
口コミが次第に広まり、今や予約の絶えない繁盛店となったのは言うまでもない。
「100年続くお店にしたい。そのために本当のナポリピッツァを知らない人に広めていくこと。」
“これを食べたいと思ったらあの店!”と選ばれる、100年近く続いている老舗店の共通点だという。
つまり、文化を作り上げることだ。
「それを一生かけてやってみたい!」と熱く語ってくれた。
これからについて、店舗を拡げていくことは考えていないという。
人気店であるが故、学びたいという声も多く、独立支援にも精力的に関わっていきたいという。
最後に、これから開業を考えている人たちへのメッセージ
「10億円を稼ぐ意気込みでやってください!!」
飲食業界をホワイトカラー化する。
代表取締役 頼富晋也 氏
居酒屋2015年開業
元々実家が飲食店を営んでいたこともあり自然に飲食店に勤めていた。複数店舗を展開する外食企業で役員を務めた後、“自身で経営者となって一度きりの人生なのでチャレンジしてみたい”と考え、ダメならまた勤め人に戻る覚悟を持って開業を決意する。しかし、いざ開業を目指し物件を探し始めるも、なかなか見つからない、いくつ申し込んでもプレゼンもさせてもらえない状況だったそうだ。組織の役員をしていたときは不動産仲介企業の方から“借りてくれないでしょうか?”と来ていたが、社会的信用のない一個人事業主となると全く違う対応が待っていて半年にわたって悶々とした月日が流れた。遂に誰も借り手のつかないような老朽化の激しい、また夜は人の動きがほとんどない路地裏の居抜き物件での開店を決めた。お店のコンセプトは「高級な霜降り黒毛和牛をリーズナブルに提供し、多くのお客様を喜ばせつつ儲かるお店」とし、お酒のセルフ飲み放題という画期的なシステムを導入し人手不足の時代に省人力で運営できるお店作りを行った。また経営者として慕って付いてきてくれた仲間に絶対に迷惑をかけないと胸に決意を秘めた。OPEN半年間は苦戦を強いられたが仲間と共に来て下さったお客様に喜んでいただき、SNSで投稿してもらえる創意工夫を徹底的に行った結果、リピートのお客様が新たなお客様を連れて足を運んでくれるようになり徐々に売り上げが増し、現在では直営5店舗を展開するに至った。継続してこられた秘訣は?の問いに「役員報酬を極力抑えスタッフに還元するとともに投資に回すこと」と、また「お客様、スタッフ、友人、知人、業者のみなさんに支えてもらったおかげです。」と心から語る。経営理念は「飲食業界をホワイトカラー化する。」「カッコイイと憧れられる職業にする。」で業界の健全化を目指す。これから始められる方には「お金は後からついてくる、目先の利益を先行してお客様を騙すような行為は絶対にせず“損して得とれ”のサービス精神でファン作りを大事にして欲しい。」「自分のやりたいことをやって成功する時代ではないのでお客様に喜んでもらうことを重視した経営を心掛けて欲しい。」とエールを贈る。
足元を見て行動する。
東村 奈緒美 氏
居酒屋2009年開業
いずれ独立する考えで和食の道に入った。10年修業した後、開業を決意した。物件は決まったが、当初考えていた業態が“立ち飲み”。そもそも当時主流とされていた「飲食店は顧客ターゲットの絞り込みを行わなければ成功できない。」という風潮に対して時代に合わないのではないか、と懐疑的な部分があったこともあり、出店立地を考えた時、地域の特性が“立ち飲み”には合わないと判断し、業態を修正した。お店の形を考慮して店舗設計を自ら行い、地域に合った、地域に根差すお店作りを目指したそうだ。事業計画も最低予測で立案し堅実に経営を行い2年目以降の出店を視野に入れていたとのこと、人が増えると本当に自分がやりたいことがやれているのか悩むことはあったが順調な船出だったそうだ。業態の考え方の中心に“日本酒を少ポーションで楽しめるお店”として当時焼酎ブームが続く中、ずっと気になっていた日本酒はどこに行っても1合単位、この仕組みを変え少しの量でも飲めるお店があるとお客様にとって嬉しいのではないかとの考え方だった。経営者として一番大事にしていることは「足元を見て行動すること!」で新たなチャレンジに対しては期日を設けて間に合わなければ即あきらめるそうで、常に自分を律している。継続してこられた秘訣は?の問いに「数字を見失わなかったこと!」と語り、どんなに忙しくても自分で帳簿をつけ、それを会計士さんに診てもらう姿勢を続けてきたそうだ。これから始められる方には「継続を目標にした計画を立てて開業して欲しい。」とエールを贈る。今後も足元を見失わず、現在の店舗を目標数値にすることを当面の目標として日々現場に立ち続ける。
人生観を変える手伝いを
オーナー須賀 光一 氏
洋食1986年10月開業
いまでこそ老舗洋食店と呼ばれる黒船亭だが、老舗にも開業当初の苦い思い出はある。
一般的に洋食店のオーナーと言えば料理人のイメージが強いが、その点で言えば
須賀氏は異色の経歴の持ち主だ。
建築会社の企画職として働き、その後はアパレル業界に十数年身を置いた。
そんな須賀氏が黒船亭を始めたきっかけは、父親のこんな一言だった。
「このフロアで儲かる商売をしてみろ」
父は元々フランス料理店を経営しており赤字に転落していた。
洋食という新しい形と空中階での飲食店開業に、銀行から良い顔はされなかった。
そして開業後、案の定と言わんばかりにお客様はゼロに近い状態。
仲間は心配して「1階のショーケースには食品サンプルを置くべき」
「お店に自分の趣味のもの置くから…」など様々な厳しい意見が思いやりの言葉として飛び交った。
挙句の果てにお店の料理人からも「社長、お客がいないじゃないか!」と営業中に
客席に聞こえるように言われたこともあった。
それでも須賀氏は自分の信念を曲げなかった。
「これで良い。周りの声に流されず、自分はマーケットを信じる。」
若い女性が行きたくない店。それを無くせば良い店になる。
そんなお店をアパレルで培った経験で感覚的にわかっていた。
とはいえ半年もこの状況が続いた時、さすがの須賀氏も考えを見直すべきかと悩んだという。
そんな時、昔からの仲間がこんなことを言ってくれた。
「お前は耳が悪いのか?俺には聞こえるぞ。すぐドアの外まで近づいている
お客様の足音が。お前がやるべきことは一つ。人を増やしてピカピカに店を磨け。」
売上が立たず、普通なら人件費の見直しも迫られるような状況下でまさかのアドバイスだった。
このまま信念を貫き、お客様を迎える準備をしろというアドバイスに背中を押され、
そして次第に店は軌道に乗っていった。
あれから数十年経った今でも、須賀氏は清掃に余念がない。
「トイレ無臭化作戦」と銘打ち、トイレの床から天井までナノコーティングを
取り入れているという。
そんな須賀氏だが、苦労はここで終わらない。
黒船亭が軌道に乗った一方で、辛い出来事も起こった。
毎月多額の赤字を抱えるプロジェクトがあったのだ。
最悪の事態を考えたとき、死んだつもりで働こうとがむしゃらに働いた。
そのがむしゃらという想いが赤字を解消した。
繁盛店となった今、須賀氏は黒船亭で独立支援を行っている。
その支援の内容は主に”気づきを与える”こと。
料理の技術や経理は教えることが出来ても、それ以上のことは
自分で気づかないと信念は形成されない。
信念がない店にはお客様は来ない。逆に言えば、強い想いや信念があれば
お客様が寄ってくるお店になると。
須賀氏が独立支援を通してここまで真摯に向き合うには理由がある。
「苦労が人を成長させることは確かだが、自分のような辛い経験は若い人には
させたくない。だから自分は気づきを伝えたい。
せめて自分がした苦労の中で気づいたことを、若い人に伝えたい。」
このように語る姿は、どこか父親のような兄貴分のような印象を受けた。
基本を忠実に!良い品物を提供してお客様を大事にすること
オーナー二代目女将 笠間喜久子 氏
お好み焼き1953年10月創業
横浜随一の飲み屋街の一角に佇むのは、昭和28年創業のお好み焼きの老舗店『みかさ』だ。
「母のお友達が銀座で鉄板焼き屋さんを営んでいるのを見せてもらったのがきっかけなんですよ。」と語るのは、二代目女将の喜久子氏。厨房で下ごしらえをして提供し、あとはお客さん自身で焼いてもらうスタイル、この方法だったら参入しやすいということで、作り方を教わりに通ったと言う。「それでも、修業には時間がかからなかったんですよ。作り方の基本をしっかり教わって、同じ仕入れ先から同じ材料を買うだけだったので、上手く行ったみたいです。」
現在地は、土地を購入して家屋を立てることから始めた。若者に気軽に利用していただけるお店を目指して・・・「その当時は、周りには飲み屋さんはあったけれど、昼間に若い人たちが食事をするお店がラーメン屋さんくらいしかなかったんですよ。」と言う。ここで、経営者の視点のひらめきがあった。当時のラーメン1杯の価格に合わせて、お好み焼きと焼きそばを30円で販売したところ、これがヒット!すぐさま行列ができるようになったと言う。もちろん、サンドイッチマンを使ったり、映画館の緞帳に広告を出すなどの宣伝活動をしっかり欠かさずに行なったことも、繁盛店への努力の賜物であると言う。
粉のレシピは一子相伝。レシピの基本を忠実に守り、材料は良いものを使う、というのを信条にしたことが、長く愛される所以だと言う。その例えの一つが、鉄板焼きのカキは本当に良いものを安く提供していると言う。「カキは売れるだけ損しているんです。それでも他のメニューも注文してくれるから、それで良いんです!」お客様への愛情を感じられるエピソードだ。
メニューの中で一番のこだわりが、“牛てん”に使う牛肉だと言う。大きめの粗挽き肉に加工して、その牛肉から取れる脂に醤油とザラメ糖を加えてまろやかなタレに仕上げる。このタレが『みかさ』の味わいの代名詞で、お好み焼きの隠し味に使うことで『みかさ』の味が完成される訳だ。「タレは継ぎ足しで仕込んでいる、創業以来ずっと受け継がれている“秘伝の味”なんです。だから、牛てんは他のメニューよりも安くしているんですよ。」
もう一つ、経営者のひらめきがあった。お好み焼きの粉は濃く作っており、野菜とよく馴染ませるために具材と合わせて一晩寝かせることで、お客様に大好評になっていった。それ以来、このスタイルは今もなお継続していると言う。
最後に、二代目女将から、これから開業をお考えの方へのメッセージ
「最初の情熱を忘れずに持ち続けてください!」