とれたて新鮮いちごのケーキでおもてなし
石川雅巳 氏
カフェ、ケーキ2007年12月
大学卒業後、27歳までサラリーマンを経験した後、父親が経営していた、アウトドア&レジャー施設を継ぐ。その多角化の一環として、いちご狩りのできる農園と併設するカフェを始めたとの事。1ヶ月くらい、イタリアでのアグリツーリズム(農村で休暇を過ごす旅)に参加。そこでの体験がきっかけだそうだ。
カフェで気を付けたのが、一般のカフェとの差別化。ケーキではパティシエのつくるケーキと勝負にならない。新鮮ないちごを豊富に使っているという点が強み。メニューは「いちごロールケーキ」「いちごタルト」「いちごパフェ」など、強みを活かしたものに限定しているのだという。
売上げも当初は波があったが、常連客が定着した事と、従業員のスキルがあがってきたおかげで、経営は安定してきたそうだ。ちなみに、スタッフはこの10年でほとんど変わっていないそうだ。
また、いちご農園併設のお店なので、営業する期間は、いちごが収穫できる12月から5月の半年のみ。その限定感も、長くお客さんに支持されている要素だと思う、と社長は語る。
座右の銘は「他人がやらないことをやる。」新たなカテゴリーを作る事ができれば、競争も起きにくいし、長く続くのだという。
これから始める方は、自分で新しいカテゴリーを作らないと厳しいとの事。たとえ小さく限られた規模であっても” これなら一番”というものをぜひ目指してほしいし、作ってほしい、とエールを贈る。
本気のこだわりと、感謝を込めた一杯をご賞味ください!
新本茂樹 氏
ラーメン2007年10月
学生時代は東京に在住。アルバイトで居酒屋、カフェなどを経験。おりしも、当時はラーメンブーム。その頃、ラーメンの食べ歩きを開始したのだという。
卒業後は、名古屋に戻り、輸入商社の営業マンとして、10年間勤務。しかし、何か自分でやりたい、という気持ちが日に日に強まっていったそうだ。同時にラーメンの食べ歩きも加速し、年に200杯は軽く超えていたとの事。
すでに結婚して、子供もいたので、独立開業か、サラリーマン継続かでずいぶん悩んだのだという。
そんな時、中学・高校時代の同級生がラーメン店を開業。これがきっかけとなり、将来の独立を見据えて、そのお店で働くことを決意。3年間の修業の後、妻の実家もあり、自身も大好きな町である、春日井市で開業。体にいいラーメン作りを追求し、地域密着で30年続く、地域一番店を目指してスタートしたのだそうだ。
オープン直後はかなり多くのお客様に来ていただけたが、3か月ほどでパタッとお客さんの波が途絶えた。そこから半年ぐらいは本当に苦しかったとの事。
徐々に地元の方に知られるようになり、じわじわ常連客が増えていったそうだ。この時、あきらめずに、そして一切の妥協はせず、もちろん決して手を抜かずに続けたことがお客様の信頼を得られたのだと思う、とご主人は語る。
看板メニューは、玉ねぎをたっぷり使った和風だしのあっさりスープに、特製細ちぢれ麺が絡む「はる樹の中華そば」。お客様のほぼ8割が注文するのだそうだ。
これまでやってこられたのは、『おいしいのは当たり前。丁寧な接客で、お客様に心から満足していただく』事を常に意識してきたからだと思う、とご主人は語る。
お客様はもちろん、お店に関わる全ての人への感謝の気持ちでいっぱいだそうで。中でも奥さまには最大の感謝をしているとの事。
今年で10年という節目になるが、今後はチームで動けるようにしたいと語る。今は、お店を任せられる人を育てることに取り組み中だそうだ。
これから始められる方へ、好きな事で飯を食うのは、決して無理なことではないから、あきらめずにチャレンジしてほしい!
とエールをいただいた。
全てに感謝!和の心でおもてなし
野呂康司 氏
割烹2002年6月
子供時代から独立心があり、個人経営のお店や仕事をやりたいと、なんとなく考えていた少年だったそうだ。
飲食業界に入るきっかけは、高校生の時のステーキハウスでのバイト。そこで、飲食店の魅力を感じたとの事。
さらに、そのお店の常連客のある有名ホテルの料理長との出会いがあり、それがきっかけで、飲食業への興味や期待がさらに深まったのだという。
知り合ったホテルの料理長が和食の方だったので高校卒業後は、迷わず和食の道に。名古屋の大手有名ホテルで7年、和食料理人として修業。
その後地元の三重に戻り修行を続け、結婚を機に愛知県に引っ越し、27歳の時に知多の大型リゾート施設の和食部門の副料理長を務める。それからも板長として複数の和食店で腕を振るってきた、生粋の料理人。
お店は2002年にオープン。以前勤めていたリゾート施設の紹介というかご縁で現在の物件にであったとの事。
お店のコンセプトは、「自分が心から行きたいお店」だそうだ。
人気メニューは、自家製響豆腐、だしまき玉子、そしてお刺身。ネタはもちろんこだわっているが、醤油もオリジナルブレンドしているとの事。さらにぽん酢も自家製。仕入れにも力を入れていて、毎日自ら市場に出かけ、週に2回は名古屋の柳橋中央市場まで出向いているのだという。
資金集めに苦労してやっとオープンしたお店は、自分の予想と全く違って、お客さんが入らなかったとの事。
この時はじめて、それまで料理人として生きてきた自分に悩まれたそうだ。それ以来、経営について、深く考えたり、様々な会に顔を出すようになった。
その結果、遅ればせながら、原価や人件費など経営に欠かせない必要な数字を意識するようになったのだという。
オープンから約1か月後、ランチが大ブレイク!それから5年間は予約なしで入れない状態だったそうだ。
当初は全く広告宣伝をやっていなかったので、すべて口コミのおかげとの事。そして、その年の忘年会、今度は奥さんからご主人への口コミ(多分そうと思われる)によって、忘年会が一気にブレイクし、お店は軌道に乗ったのだという。
繁盛継続の秘訣は、” ちゃんとする”ということ。要は、手を抜かない、無理はしない、といった基本を大切にしてきたこと。とご主人は語る。
「全ての人に感謝!和の心を持ってお客様やスタッフなど、お店に関わる全ての人を幸せにする。」がお店の経営理念。
今後は、お店で修業して巣立っていった人たち数名の昔の仲間で新たなお店をもう1回一緒にやるのが夢だそうだ。
そして最後に、これからお店を始める方・始めたばかりの方に、
・全てにおいて嘘をつかない、ごまかさない。
・浮き沈みがあるので、いい時に調子に乗らない。
・店のお金と個人のお金をごっちゃにしない。
・買い掛けは極力しないで、現金払い。
という、ご自身の経験をふまえた、実践的なメッセージをいただいた。
出来る範囲で、そしてコツコツと
川崎 勇司 氏
ビストロ平成15年3月
学校を卒業して、ホテルニューオータニ札幌の調理へ。その頃から漠然と自分のお店を持ちたい、と思っていたようだ。調理人を目指したのは、手に職をつけたい、料理が好きだから料理人の道へ進んだと語る。その当時は、調理師学校へ進むか直ぐに飲食店で修業するか2タイプが半々くらいだったようで、自分には調理師学校へ進む、という考えはなく、修行の道へ進んだという。
そしてホテルを皮切りに10軒ほどの飲食店で修業、漠然としていた自分の思いが30代半ばくらいから徐々に方向性が見えてきたと話す。
調理人として勤務しながら、場所探しや色々な準備を進め、退職してから2カ月ほどでオープンさせた。初めてお店を持つということは知名度も何もない、やはり路面店が一番良いが、街中でお客様が来られるような場所を探すのは難しく、色々と探していたところ路面店である現在の場所にたどり着いた。
内装は、一から作ったが費用を抑えられるように考えたという。一番大変だったのは、銀行からの融資手続きに関わる交渉関係だったようだ。
お店には約70~80本ほどのスパークリングワインや赤白のワインを常備、そして季節ごとのお料理をお出しできるようにしている。評判が良いのはお肉料理だという。
お客様は飛び込みで来られた方がリピーターに、という方が多く、長年来られている方はもちろんだが久々に顔を見せてくれる方もいるようだ。
オープン当時はホールスタッフもいたようだが現在は一人。
料理もホールも両方やらなければいけないが「大変だ」と言っている状況ではない。出来る範囲でやっていく。そして今来て頂いてるお客様をコツコツと大事にしていきたいと語る。
今この時が人生で最高の瞬間 今日ここでの出遭い 心から感謝
宮岡 秋廣 氏
居酒屋平成24年9月
20歳の頃、喫茶店を経営していたが、結婚して子供が生まれた時、安定を求めてスーパーに勤務。時が経ち45歳の頃、仕事のやりがいなどに疑問を感じ脱サラ。会社を辞めたいと家族に相談した時は、当時1番下の高校二年生のご三男様を始め家族に後押しされたと嬉しそうに語る。現在はご次男様が会社の片腕として無くてはならない存在だそうだ。
そして平成4年、ステーキ弁当専門店を創業。5年ほどは厳しい状態が続いたようだが周りの方々に助けられながら有限会社を立ち上げて、全国の北海道物産展にも出店し、売上は右肩上がりに。ところが2001年に発生したBSE問題で大打撃を受け、会社をたたもうかとさえ考えたが、周りの人やスタッフに支えられ一念発起、売上は徐々に回復していったという。 そして帯広から札幌へ移る。折よくワンランク上の弁当屋を探していた百貨店を紹介され「ステーキ弁当専門店フォーシーズン」を出店。それを機に全国の百貨店にも出店を続けたそうだ。 札幌へ来る百貨店のバイヤーとの食事会も多く、どうせお金を払うなら、その人たちに食べてほしいと思う料理を提供できる自分のお店を出したほうが良いと思ったのが飲食店の出発点だという。 最初は地産地消のものにこだわった「蟹とステーキのお店」、ところが理想と現実は違った。自分が気に入った店では経営が厳しいことに直面する、そしてオープン1年半後、現在の場所へ移転。今は、日替わりメニューや北海道物産展で飛び回りながら仕入れてくる日本酒をお出しする「創作料理と美味しいお酒のお店 北乃家」。15名ほど入れば一杯だがミュージシャンを応援出来る大好きなライヴを不定期に開催している。
移転後、心筋梗塞で倒れる。その時に思ったのが自分は生かしてもらっている、自分の範囲で出来ること、そして頑張っている人たちを応援すること、それが自分の生かされている理由だと吹っ切れた、今までの人との出会い『一期一会』を実感できたからこそ、皆さんに感謝のお礼をしたいという。 これからは縮小していた弁当屋を少し拡大、基盤を固め息子たちへ譲り、「北乃家」は趣味も取り入れたライヴハウスレストランにしていきたい、と夢を語る。