お客様に心から満足していただく事を目指しています!
角谷 龍次 氏
焼肉・ホルモン2005年
高校時代から中華のバイトをしていたのが飲食業に触れたきっかけ。主に調理を担当。
その後、バイトから社員になり、10年の修行の後、独立。中華のお店を始めたのだという。
最初のお店は、立地にも恵まれ、はじめから調子が良かったそうだ。1号店好調の勢いで、2軒目(ラーメン専門店)を出したが結果が出ず、1年で閉めることに。
この時、調理はプロでも経営はアマチュアであったことを痛感。その後は様々な勉強をしだしたのだという。そして、お店のコンセプトの重要性や、不調はもちろん、好調であってもしっかりとした原因の分析が必要なこと。さらに商圏内の競合状況チェックの大切さ等を遅ればせながら学んでいったのだそうだ。
そして、中華のお店に再チャレンジするが、業績はもう一つで、この店をその後、焼肉店に転換して現在に至っている。
看板メニューは、とんちゃん。ぎょうざ。
客層は、最近は女性も増えてきたとはいえ、男性がメインのお店なのだそうだ。
色々あったが、これまで続けてこられたのは、
来たお客様に、心から感謝して満足していただきながら、さりげなく自分をアピールしてきた事がリピート・常連化につながったと思う、とご主人。もちろん、料理人出身なので、料理の味にも当然こだわってきたという。
心掛けているのは、一人でも多くのお客様に楽しい場、出会いの場を提供する事。
今後は、またチャンスを作って複数店舗にチャレンジしたいそうだ。
これから始められる方へは、
お客様、スタッフ、取引先、家族、すべてに感謝し、自分の健康にも感謝して、全力で夢に向かってチャレンジしてほしい、とエールを贈る。
一人一人の味覚に合わせたカクテルをお創りします
野呂竜二 氏
バー1987年6月
飲食業界に入ったきっかけは、勤めていた会社を辞めた際に、次の仕事を見つけるまでということでバーでアルバイトをしたのがきっかけとの事。
当時の日本は、バブル景気。人に使われているより、自分でお店を経営した方が儲かるといわれていた時代。思い切って独立を決心したのだという。
コンセプトは、オーセンティックバー。
「北海道知事から表彰されたバーテンダーが、一人一人の味覚に合わせたカクテルをお創りします」がお店の売り。
開業時は、バブル経済に便乗し、比較的短期間で複数の店舗を経営するまでになったのだそうだ。おかげさまで、自分は軌道に乗るまでの苦労は、無い方だと、マスターは語る。
看板メニューは「モスコーミュール」自家製のフレーバードジンジャーウオッカに生姜を漬け込み、ドライなモスコーミュールに作り上げている。あとは、ひとりひとりお客様の味覚に合わせて、その場で創作したりもするのだという。
これまで続けてこられたのは、バーテンダー技能競技大会やカクテルコンペに積極的に参加して、優勝した実績が大きいのでは、との事。地域にこのようなバーはないのだそうだ。
経営者として、一番大事にしている事は、
店は、常連でもっているので、常連のお客様を特に大切にしている。新規のお客様には、自店のオーセンティックバーとしての考えを理解していただくようにしているのだという。共感していただけた方はリピーターになってくださっているそうだ。店とお客様はあくまで、対等と考えているとの事。
今後は、バーテンダーを育て上げ、独立させるのが目標なのだという。
これから始められる方へ、
しっかりとした自分の理想や信念を掲げ、決して周りの言葉やお客様の言葉に振り回されないで、自分の作った物を自信を持って売り、正当な代価をいただいてほしい。自分の作った物を安売りするなかれ!とエールを贈る。
地域密着で、地域の人が集える”場”を提供しています!
加藤 輝幸 氏
もんじゃ焼き・お好み焼き1995年4月
元々実家は個人経営の食肉店であったが、継続が厳しくなったため、付加価値を提供できる飲食店へと転換したのだという。
コンセプトは、地域密着で、地域の人が集える場所を提供する「ファミリーもんじゃリゾート」。小さい頃親に連れてきてもらった子が大きくなり、今度は友達同士でも来店するようになり、そして恋人とも来店するようになり、いずれ結婚して自分の子供を連れてきてくれるようになる、そんな地域の人たちのライフサイクルに寄り添ったお店を目指したのだそうだ。
また、地方から移り住んでくる人も多い街なので、この街のことをよく知ってもらい楽しんでもらい、この街を第二の故郷と感じてもらえるような、「観光案内所」的な役割を果たすことも目指したのだという。
しかし、開業時は初めての飲食店ということで、スタッフもみんな素人で、見切り発車のような開店だったため、注文を受けてから、「これどうやるんだ??」というようなこともあったり、お客様にはかなりご迷惑をかけたとの事。
看板メニューは、もんじゃ焼き、お好み焼きは当然として、元肉屋という利点を活かした、肉系の焼き物メニューが売り。
これまで続けてこられた秘訣は、大きなメニュー変更は一度も行わず、お客様の思い出創りを大切に、「変わらない、変えない」ことを大切にしてきたことではないか、とご主人は語る。
「お客様は、来るものではなく、帰ってくるものだ」と考え、いつ帰ってきても、「あー変わってないね」と思っていただきたいとのお考えだ。
地域を大切にし、お客様の思い出を大切にして、地域に恩返しをし、地域貢献に努める。というのが経営理念。
今後は、一日でも長く経営をつづけることを目標にしているのだという。
儲けることよりも、続けること。「継続は才能を超える。」続けることによって、街の中で、無くてはならない、「必要必需店」を目指すのだそうだ。
これから始められる方へは、
「何をやるかが重要ではない、どうゆう気持ちでやるかが重要。」自分が始めようとする仕事を通じて、自分だけでなく、世のため人のためになるためにはどうしたらいいかを常に考えていけば、必ず求められる店になる、とアドバイスをいただく。
国産うなぎ専門で半世紀の鰻屋。ハレの日のお祝いにどうぞ!
西山 一夫 氏
うなぎ1963年
元々和食に興味があり、いつか自分でお店をやろうと思っていたのだそうだ。そして、和食の中でも鰻料理は過去300年続いているジャンルなので、永く続けられると思い、地域一番の老舗の鰻屋に修業に入り、その後独立したのだという。
お店のコンセプトは、
ハレの日の鰻屋(お祝いやちょっと特別な人を連れて行きたい店)
開業時は、スタッフ育成と店のシステムを作りあげる事に苦労したのだそうだ。
看板メニューは、もちろんうな重。ほとんどのお客様が注文されるとの事。
鰻は国産に徹底してこだわり、たれは継ぎ足し秘伝の味。
そして、注文を受けてから、蒸しを入れる。蒲焼に必要な脂分だけ残し、ふんわり弾力を感じるまで蒸す。そして、焼き上げ。焼きは、タレを3度つけては焼きを繰り返し、丹念に焼き上げるのだという。この手間ひまが、忘れられない味に仕上げる大事な工程なのだそうだ。
これまでお店を続けてこられたのは、できることを一点集中にやってきた事や、常に丁寧に、変わらぬ味と心からのおもてなしを提供してきた事ではないかと、ご主人は語る。
今後は、日本の美味しい鰻を海外(東南アジア)に広めていきたいと考えているとの事。
これから始められる方へ、
お客様に心から喜んでいただけるよう、一つ一つ真心を込め、誠実に良いものを提供することにまず集中してほしい、とエールを贈る。
お客様との距離、近いからこそ伝わってくるものがある
青山 雄久 氏
中国料理平成27年4月
食の道に入ったのは、高校時代の先輩の影響。ご両親が食堂を営んでいた、その先輩が調理師専門学校へ進み、その後を追うように入学。卒業後は札幌市内のホテル中華料理店から街場の中華料理店へと移り、その後、紹介を受け札幌グランドホテルのチャイニーズダイニング「黄鶴」へ。そこで約30年間勤めた。30年勤められたのは「楽しかったから」。札幌に限らず色々な人と出会え、様々なことを吸収できたのも中華調理長という立場を務めさせてもらえたからだという。
オープンする半年ほど前から物件を探した。色々なことを考えて自宅付近という条件。知人の不動産屋さんにお願いしていたが、たまたま奥様が空き店舗の貼り紙を見つけたことから現在の場所になった。オープン景気もあり売上は順調、ホテルや他ホテルの中華調理仲間が休みの日に手伝いに来てくれた。ところが落ち着いた頃、売上はダウンする。その頃、丁度、雑誌やラジオ、そしてテレビで「中國食彩 Aoyama」が紹介され、お客様が次々と来店、そこからリピーターに、そして口コミで広がったという。
一人だから全部やらなければならない、それでもやりがいがあり、お客様との距離が近いお蔭で高齢のかたであれば少し薄口に、常連客には、その人の好みの味付けで、ということが出来ることが面白いという。さらには焼きそばを注文した常連客に叉焼を焼いたから、とラーメンを勧めることもあったそうだ。良いことも悪いことも直に声が返ってくる、言葉になっていなくても態度や雰囲気で分かるから良いという。
売上が大事だけれど、お金儲けではなく、お客様が喜んでくれるのが一番。「何事にも正直に」を大事に、料理を作る。そしてサービスは奥様が担当、支えてもらっていると語る。
現在は厨房の広さの関係もあり一人で調理しているが、移転も視野に入れ、調理人を少なくとも2名体制で料理の幅を広げていきたいと目標に向かう。