” イタリアの記憶・イタリアの味”をお届けしています!
小安秀和 氏
イタリアン2014年11月
中学生の頃から料理が好きで、なんとなく料理人になりたいと思っていたが、高校生の時に飲食店でのアルバイトを経験。その思いはさらに強くなり、卒業後は調理の専門学校に進んだのだそうだ。
専門学校卒業後は5年ほど東京のお店で働き、その後イタリアで2年ほど修業、帰国後は、縁あって名古屋のお店で7年間働いて、開業資金の準備や人脈づくりをしたという。
開業時はまず、物件に恵まれた。大きな駅に近い事と、周辺に個人店がほとんどないという立地だったので、即決。しかし、内装屋さんとのコミュニケーションが上手くいかず、店づくりには苦労されたそうだ。
地域に知られるまでは、集客も大変だったが、開業前からFacebookで情報発信をしていたのが良かったとの事。また、イタリアで働いていた時の仲間が日本にも知り合いが多く、そこからの口コミが力になったのだという。
日本人の好みに合わせてアレンジしたりするのではなく、イタリアの伝統料理を出したいというのがお店のコンセプト。
人気のメニューは、修業していた北イタリアの代表的な料理であるラビオリ。
大事にしているのは「イタリアの記憶・イタリアの味」流行を追ったりするのではなく、自分が体験し、いいと感じたものを提供していくことを心掛けているのだという。
今後は、任せられる人が育ってくれば、近くに2号店(ピッツェリアのようなシンプルでわかりやすい業態)を出したいとの事。また、自分がいいと思ったイタリアの食材なども販売につなげられたら、というお考えだ。
これから始められる方へ、
お店を経営してくのは、大変な事も多いが、その中でも楽しい事を見つけて、仕事をしてほしい。そうじゃないと続かないし、お客様も楽しくない。スタッフも育たないと思う。飲食が好きでこの道を選ぶ方なら、忙しい中にも、必ず楽しい事は見つかるので、楽しく頑張って欲しい、とエールを贈る。
伝統を守り、人を育て、長く続く店に!
福本 賢吾 氏
讃岐うどん2006年5月
香川県出身の父親が、長年勤めていた会社を退職し、名古屋で讃岐うどん専門店を開業。自分には別の夢があって、違う仕事をしていたが、20代後半、色々な面で仕事に悩んで、行き詰っていた時に、父親が声をかけてくれ、店を手伝う事に。
その後、自分もうどんの奥深さや、飲食店の魅力にどんどん引き込まれていき、跡を継ごうと腹を決め、現在に至っているのだという。
コンセプトは、本当の本場の味、讃岐の味の提供。
開業時は、父も含めて、みな素人だったので、当初は給料も出ないくらい大変だったそうだ。家族でやっていたから何とかやってこられたのだと思う。当時は、親子や夫婦で、言いたい事を言い合っていたという。
最初の半年ほどは相当厳しかったが、売り上げは徐々に徐々に上がってきた。(本当に少しづつ) 特にここ2~3年は、売上げは順調なのだそうだ。
お店が何代も続くことを目標に、自分の次の人もやっていけるようなお店のシステム作りを考えたとき、安定して売り上げも上がってきたのだという。
これまで継続してこられた秘訣は、スタッフを大切にしてきたこと。もちろんお客様も大切だが、まずスタッフ。そうする事で、スタッフがお客様を大切にしてくれる。というお考えだ。
今は、うどんの世界を広げる事を意識しているのだそうだ。新しい切り口のメニューに積極的にチャレンジし、いいものはどんどん取り入れていく。しかし、単なる模倣ではなく、自店のフィルターを通して提供しているのだという。
大須という、いわば名古屋の観光スポットにあるお店なので、土日はかなり広域からたくさんの方が来てくださる。しかし、地元で働いている方や住んでいる方に、何度も来ていただく事が大切と考え、平日のランチセットに、最も力を入れているのだそうだ。
心掛けているのは、人材の育成。長く続く店にする為に一番重要な要素。麺づくりも、食材へのこだわりも大事だが、やはり人。
これから始められる方へは、
自分の軸を持つ事、ブレない事が大事。そのうえで、しっかり儲けることが大事。利益を出して、お店を続けることが、好きで通ってくれるお客様への最大の恩返しだと思うので、やるからには長く続けてほしい。とエールを贈る。
普段使いのできるすし屋、地域一番を目指しています!
横井 充成 氏
すし屋1970年9月
実家がすし屋ということもあり、飲食業は身近な存在だったとの事。まだ暗い早朝から晩まで働く両親の姿を子供ながらに見ていて、将来は同じ道を進むものと思っていたのだという。
高2年生の進路を決める時期「専門学校に進んで、将来は家業を継ぐ。」と親に伝えたら、「大学進学して、公務員などを目指したほうがいい。」と両親から反対された時は意外だったそうだ。両親は、飲食業がこれから厳しい時代になると予見し、その世界に息子を進ませることは、親としては心配だったのだろうとの事。
しかし、すし屋の息子に生まれてきたのは『自分に与えられた定め』だと思い、悩むことなくこの道に進むことを決めたという。
専門学校を卒業し、名古屋の某有名ホテルに就職。だが、飲食業の華やかなイメージだけを自分の中で美化し、浅いプロ意識で挑んでいた若造だったので、厳しい世界を目の当たりにして何度も挫折しそうになったのだそうだ。そんな矢先「人が足りないから、戻ってこい。」と父親から電話をもらって、両親の営むすし店に戻ることに。「違う世界に進んだほうがいいのかも。」と、揺れていた自分の背中をグッと押してくれた時だった。
地元のおすし屋さんとして、地域密着でやってきた店だったが、実家のお店に戻った頃は、回転寿司や宅配寿司が台頭し、昔ながらのスタイル(出前メイン、宴会主体)でやってきたお店が、厳しくなってきた時期でもあり、定食ものや料理主体のメニューに力を入れるおすし屋さんが増えてきて、迷った時もあったという。
しかし、原点に帰り「町のおすし屋さんだからできること。」を追求するというコンセプトを再確認して前面に打ち出すことにしたのだそうだ。
地域の人を笑顔にできる「地域に根ざした、普段使いのできるすし屋」というコンセプトは今も変わっていない。
お店の方向性やメニュー開発、イベント出店など、何をするにも「すし屋」ということを常に念頭に置いて考えていくことで、スタッフみんなが同じ方向を向いて働ける指針になっているとの事。
看板メニューは【大将のおまかせ握りセット】(7貫、10貫)
その時の旬のネタや定番ネタなどをお値打ちに盛り込んだ、「にぎりメイン」のセットメニューで、夜のお客様の9割は注文される人気メニューだそうだ。キャッチコピーは「すし専門店ならではの本格握り」「回らないすし屋の直球勝負!」
これまで続けてこられた秘訣は、両親がコツコツと真面目に商売をして、地域や地域の方々を大切にしてきた事。そういった地道な努力の積み重ねだと思っているという。
大切にしていることは「地域に根付くこと」「地域の方に愛されること」「地域に貢献すること」
そして「地域一番店であること」
地域活動は積極的に参加して、地域の方と一緒に汗を流しているのだそうだ。
今後は「すしを売る店」により特化したい。色々な料理が出てきて、握りはちょっと、のお店が多い中、「握りのみ」ぐらいのお店がいい。お店のわがままを存分に出せて、それでいて通いやすいお店が理想(夢)とのお考えだ。
これから始められる方へ、
飲食業は、自由度が高く自分の色を率直に出せる世界。その色を伝えることは難しいが、そこを楽しめるかどうかだと思うとの事。お店の規模に関係なく、人を笑顔にできる素晴らしい職業につけるのも幸せな事だと思うので、頑張って欲しい!とのエールを贈る。
お店に関わるすべての人を幸せに!
落合佑也 氏
ビストロ2014年4月
元々料理に興味があり、調理師専門学校に進んだ。その後地元のレストランで修業の後、今の場所のお店で店長として働き、その数年後、同じ場所でビストロオチアイとして独立。
駅に近い立地なので、昼は食事、夜はビストロ料理をつまみにワインを飲めるというコンセプトでお店づくりを考えたとの事。
ランチはセットメニューでお得に食事をしていただき、夜は単品メニューにして、好きな料理と好みのお酒を自由に楽しんでいただける形にしたのだという。
店長として働いていた頃は夜も食事メインのお店だったので、開業当初はその影響で、なかなかお酒が売れなくて苦労したのだそうだ。
アルコールをメニューの一番上に書いたり、料理前にファーストドリンクをオーダーしていただくようにしたり、ワインセラーをよく見える場所に移動したり、店頭の黒板にもアルコールメニューを多く書いたりしたという。こういった取り組みのおかげで、徐々にお酒を楽しむ店として利用してくれるお客様が増えたのだという。
看板メニューは、
昼はオムライス、ハンバーグといった洋食の定番メニュー。夜は、香草バターで具材をオーブン焼きにする「ココット焼き」(¥300-400)が人気。野菜や魚介など様々な種類を用意し、少しづつ色々な味を楽しんでいただけるようにしているとの事。また、約30種類の日替わりメニューや、シェフ自らが飲んで選んだワインを200本、用意しているのだそうだ。ワインは日々新しいものが入荷するので、毎日違うワインが楽しめるのも魅力。
これまで続けてこられたのは、お客様とこまめなコミュニケーションをとってきたからだという。お店では、シェフもできるだけお客様と会話し、Facebookには毎日新しい記事を投稿。さらに、いい食材が入った時にはLINEで直接連絡しているのだそうだ。
経営理念は、常に変化し続ける事。そして、お客様・スタッフ・取引先・家族・自分、お店に関わるすべての人の幸せを考える事。とシェフは語る。
今後は、規模の拡大ではなく質を上げて客単価を上げる事と、テーブル席よりカウンター席を増やして、お客様と密なコミュケーションを取れる空間にしたい、とのお考えだ。
これから始められる方へ、
初めの頃の苦労は、後で絶対役に立つので、辛いことも逃げずに頑張って欲しい、とエールを贈る。
人と人をつなげることが“商売”
小幡 知哉 氏
イタリアン平成20年12月
寿司屋を営んでいた家庭に生まれ、物心ついた頃から調理の世界に慣れ親しんでいたからか、小学生の頃は友人が通うというので一緒にクッキングスクールへ、そして調理師学校へ進む。
卒業後は、高齢化社会を見据え「これからは和食の時代」と割烹料亭へ、そこで出会った親方のお蔭で今の自分があると話す。まだ修行の身でありながら“お客様に慣れる”ためか時折「花板」の場所に立たせてくれ、お客様との会話も修行したようだ。お客様からお声が掛かれば、ご挨拶にも行かせてもらえた。お母様とこの時の親方に人生での大切なことを教わったという。
何でも吸収したいという情熱は全く違うところへと向く。他では習えないことを習いたいとアジアンダイニングへと移り、様々な料理を習得。
そして一転、魚の調理を、と千葉県へ飛ぶ。後で分かったことだが雇ってほしいと飛び込みで入った店は千葉でも有数の名店、大衆割烹だった。その後は創作ダイニングの立て直しで声を掛けられたり、系列のハワイアンダイニングの立て直しも行った。
先輩が札幌でフレンチレストランを開業することになり帰札。その後も、色々な人から声を掛けて頂き、経験を積み、現在の「ビーフシチューとパスタの創作イタリアン パパクックキッチン」をオープンさせる。
店名は「アメリカ料理を変えた料理人」「アカデミー賞公式シェフ」と呼ばれるウルフギャング・パック氏の2倍上を目指したいとパックをダブらせたのが由来。
お店の立て直しを数軒、さらに他店での商品開発のお手伝いも多く行ってきたノウハウで開業できた、大事なのは「自分の足元を見つめること」と話す。
“人を良くする”と書いて「食」。それがお店のコンセプト。「料理は伝えることが大事」と語り、後世に残るようなものを作りたい、自分の名前がついた調味料も作ってみたい、とこれからの目標を熱く語る。