常に目標を見定め、計画的に黙々と培う
坂本 修一 氏
中華バル平成28年4月
「中華バルSABUROKU(サブロク)」。調理師専門学校を卒業し、東京の中華料理店に勤め始めた頃から砥石の裏に“30歳で店を持つ”と目標を書き、地道に努力し本当にそれを実現させた。
両親が共働きで夕飯を作るようになってから“味が変わる”ことに面白さを感じ、調理の世界へ。調理師専門学校を卒業し、東京の「中国四川料理 天悠」へ。東京に出たのは調理の勉強もそうだが、色々なお店を食べ歩くこと、そして見てみることが主だった。
お店の知人からの紹介で札幌ガーデンパレス「赤坂 四川飯店」へ。約7年働き、広東料理の流れを汲むプレミアホテル-TSUBAKI-札幌「中国料理 美麗華」へと移る。四川料理は辛い、広東料理は日本でもポピュラーな味わい。自分に必要な勉強がしたい、と学校を卒業してから歩んできた道は変わらない。
お店を出すため常に構想を練り、調理人をしながらも客席に出させてもらい接客の勉強や調理器具を自分で直すことなどもやっていたそうだ。
バル形式のお店にすることはオープンの7~8年前から決めていた。
そして物件を探すときの条件で外せなかったのは路面店、自分の店に来てくれるお客様を持っていないからビルの中などでは難しいという理由だ。さらに競合したくないので知人の店が無い場所、そして駅の近く。探し始めて2か月ほど経った頃に現在の場所に決めたという。
店でのこだわりは“市販のものは使わない”。調味料や油など料理に必要なものも作れるものは全て手作り、缶詰なども使わず徹底して生のものから作り出すそうだ。
目先の目標は、やはり売上。しかし将来的には、一緒に頑張ってくれている副料理長のためにも、もう一店舗開店するため黙々と自分の道を歩み続ける。
サルサ(ダンス)=人と人を繋げるもの
今 美子 氏
レストラン&バー平成15年8月
サルサ(ダンス)を通し、ラテン文化に魅了されたことがお店の開業につながったという。そのきっかけは、さかのぼること憧れの地元放送局へ入社したこと。入社3年目、東京へ転勤。そこで出会ったのがサルサだった。サルサに出会った半年後、札幌に戻るが、その情熱は消えることなく定期的に東京へ通ううちに会社の休日に札幌でも教えるようになる。イベントやワークショップなども開催し始めると取材を受けるようになった。在職しながら活動する限界を感じ退職、サルサの大会でロサンゼルスに3 度行き、その後サルサのルーツであるキューバヘ遊学したと語る。その時に知り合ったキューバ人と札幌で結婚。知り合いが経営していたラテンバーを引き継いでやらないかと、現在のお店の話が舞い込んできたという。居抜きで条件も良く、キューバ、ラテンそしてサルサに特化したレストラン&バー「エルマンゴ」が誕生した。
キューバ料理は食材などこだわりがあり、入荷出来ずに困ったことも多かったようだ。さらに音楽イベント開催用のノウハウが乏しく、開催しながら覚えていくことが大変だったという。キューバの母国語はスペイン語。世界でもトップクラスで多く話されている言語、そんな関係でお店にはサルサをやっている人はもちろん日本はもとより海外のスポーツ関係やミュージシャン、さらにラテン系の人なども来店、国際色豊かなお店だ。ラテン文化が大好きと語りながら、サルサを通して人をつなげるのが自分の役割と話す。
数年前に離婚し残念ながらキューバ料理はお休みしているが、それでもキューバのお料理「チビリコ」は現存、またドリンクが豊富。ラム酒の代表「キューバ・リブレ」はもちろんモヒートなどもそうだ。現在は木曜日 ~日曜日までイベントが主となっており、お料理はビュッフェスタイルでの提供やカレー食べ放題のイベントを行うこともあるそうだ。開業からのイベントのノウハウを積み重ね、今ではライブや結婚式の2次会、音楽、ダンスの発表会などイベントを開催したい人などへアドバイスもする。自分が続けてきたサルサがキッカケで誰かの「やりたい」を実現出来るようになってきたという。振り返ると自分の店だけで精一杯だったが色々な巡り合いをいただいてきた、これからは他の店との繋がりも大事にしていきたい、お店が良くなると皆も良くなる、そして楽しい場になることで楽しい、良かった、と思われるお店にしたい、これからの若い人たちを育てることが出来るお店になりたいと、熱くその想いを語る。
信頼という暖簾を大切に、親しみとくつろぎのおもてなし
中江 白志 氏
馬肉料理1905年3月
老舗桜なべ屋の4代目として生まれ、小さい頃からお店は自分が継ぐものと思っていたという。
桜なべとはそもそも、文明開化で日本人の四足動物食が解禁され、横浜で「牛鍋」が流行っていたことから「牛が美味しいなら馬も美味しいかも」と、馬で鍋を作ったのが受け、桜なべは吉原の「流行グルメ」になったとの事。最盛期には吉原大門前の通りに20軒以上のお店が並んでいたそうだ。
純国産の極上桜肉を使用した東京の郷土料理である桜なべを、国の有形文化財に登録された大正建築の店舗で食していただけるのがお店の魅力。看板メニューはもちろん「桜なべ」。
開業から6年後の明治44年には吉原大火に見舞われ、さらに再建後約10年経った大正12年には関東大震災によって店舗が消失。20年の間に3回店舗を新築しなければならなかったことは大変な苦労だったという。
ご主人(4代目)は、バブル崩壊後に跡を継いだのだそうだ。老舗の伝統や格式を守る事と、節約・緊縮経済の流れとのぶつかり合いで、舵取りの難しい時期だったとの事。しかし、早くから先代よりお店の全権を任されていたので、プレッシャーはあったが、比較的スムーズに経営を引き継ぐことができたという。
長きにわたり、お店を継続してこられた秘訣は、その時代時代の、お客様の求める価値観に合わせた情報の提供をしてきたからではないか、とご主人は語る。
経営理念は、
「信頼という暖簾を大切にし、親しみとくつろぎのおもてなしと感謝の心でお客様に接する桜肉料理の専門店であり続ける事。」
今後の展開としては、食用に最適な肉質の食用馬の開発と安定供給だという。
これから始められる方へは、
自分のこと、今のことだけで精一杯にならず、周囲のこと、将来のことまで考えられる余裕を持った運営をして欲しい。とエールを贈る。
地場産と手づくりにこだわったダイニング
遠藤 孝珠 氏
イタリアン2004年
元々はバーテンダーとして働いていたが、料理とお酒両方を楽しんでもらいたい、という思いから、開業を決意。
「イタリアンをベースにした料理とお酒が楽しめるお店」がコンセプト。
手づくりにこだわり、レトルトや化学調味料等を一切使わず、本物の味にこだわっているのだという。
開業時はお店のコンセプトが伝わらず、集客に苦労したとの事。2年目くらいからお客さんも増えて繁盛し始めるが、同時に同じようなお店が乱立。ほどなくして、また苦戦が始まったのだそうだ。
人気メニューは
ビール酵母の手作りピッツア、地場産の自家製生ハム
大切にしているのは、お客様の気持ちになる事、お客様にとっての価値を第一に考える事だという。
また、お客様は” 美味しい”だけでは来店しないので、食べてみたくなる、行ってみたくなる料理やドリンクやサービスの提案を心掛けているとの事。もちろん、実際に美味しくなければ二度とチャンスはない、とシェフは語る。
これまで継続してこられたのは、第一には足繁く通ってくださる常連さんの存在。また、アルバイトのシフトを細かく組んで、人件費を限りなく変動費化したり、照明のLED化などの工夫で電気代を低く抑えたり、といった地道なコストダウンも生き残ってきた要因だと思うとの事。
これから始められる方へは、
勝てる市場で戦ってほしい。(自分自身競合多数で苦しんできたので)
勝てそうなジャンル、地域などをしっかり調査してからお店を出してほしいと、エールを贈る。
仕事も遊びも全力で!
永井 秀雄 氏
喫茶店1982年3月
高校卒業後栄養士専門学校に入学。その頃肉屋でアルバイトを始め、専門学校卒業後
そのまま肉屋(業務用食肉卸)に就職。名古屋はじめ、様々なホテルを担当していた。
10年以上の勤務の後、今の場所で開業。元々は肉料理が自慢の弁当屋をやる予定だった。しかし、居抜きで適当な物件(喫茶店)が見つかったので、喫茶もやりながら、出窓で弁当を出すというお店でスタート。しかし、中で食事をする方が多く、結局弁当はやめたのだそうだ。
道の反対側が、大手百貨店の配送センターだったので、外商の営業さんを中心に、毎日通ってくださって、スタート時は朝から晩までほぼ満席という状況だった。
その後、配送センターが移転したことで、一気に売上げがダウン。喫茶中心ではなかなか売り上げが伸びないので、得意の肉料理を中心に、ランチメニューを充実させたそうだ。その後は近隣のビジネスマンを中心に徐々にお客様がもどってきたという。
昔は喫茶の売り上げが7割だったが、今は1割程度。ランチ主体のお店になった。
人気メニューは、トンカツ定食。コロッケやトンカツは肉屋ならではの味に、独自の工夫を加えたオリジナル。手間ヒマはかかるが、好評いただいている。その後ハンバーグや焼肉定食、さらには焼きそばなど徐々にメニューを増やしたことで、毎日来てくださるお客様が増えた。
ここまで長く続けてこられたのは、長年お店に通ってくださる常連さんのおかげだし、苦しい時に助けてくれた、大家さんや取引先のおかげ。とご主人は語る。
これから始められる方へ、
お店を始めると何かと忙しくなるが、遊びや趣味もぜひやったほうがいい(できれば徹底的に)との事。何かの形で必ずプラスになってくるので、仕事も遊びもしっかり取り組んでください!とエールを贈る。