圧倒的な健康を維持し[温故知新]を大切に
宍戸 かずひさ 氏
バー平成21年11月
すすきので生まれ、すすきので育ち、そして色々なバーで酒の飲み方はもちろん音楽や会話を教わった。25年間勤めた食品会社の営業マン時代にも通っていた大好きなバーが様々な理由で次々と無くなってきた頃、自分の将来を見据えたとき「バー」という道に進むことを決めたという。
折しも2008年のリーマンショック、そしてオープン直前には政権交代があり、すすきのの客足は遠のいていた。そんな時期にオープンすることに対して忠告してくれる友人知人もいたが「すすきのの小さな呑み屋 ししドア」はオープンした。
バーに通っていたとは言え、素人。オープン前に札幌商工会議所が行っていた研修に参加。座学のほかに実地研修があり、その研修で行ったバーが今でも繋がりが深い「バー 一慶」だった。自分より17歳も若い経営者。ところが学んだことは沢山あった。夜の店の経営者はライバルではなく『仲間』だということ。そして店からビルを、街を、札幌を活気づけていく、点を線に、面に深堀をしていくと店同士、お客様同士が繋がっていく、そんな信条も合致していた。
今でも月に2~3回ほど通ってくれる友人知人はいる。オープン当初に来てくれる友人知人は有難かったが、バーとしての店に来てくれるお客様を早く作りたかった。そのためSNSの先駆けミクシーやツイッター、そして当時、出始めたFacebookなど活用した。それは今に繋がってきているという。
オープン2年目には、待っててもお客様は来ない、新しいお客様を増やすことを痛切に感じた。カウンターの中と外では見える世界が違っていた。 「バー 一慶」のオーナーからの声掛けで定休日の日曜日にイベントを開催、そして交流会や勉強会、試飲会にも積極的に参加。すると不思議にコラボレーションが立ちあがるなど幅が広がっていったという。
オープン4年後には、そんな縁の中で毎週金曜日にライヴを開催、そのミュージシャンの繋がりで更に交流も広がり、今も様々な縁が生まれている。
これからは自分に色々なことを教えてくれた先輩たちのような大人でありたい、 20~30代の人たちが来やすい店に、そして3世代通ってくれるお店でありたいと語る。
真面目にコツコツと、正直に商うとお客様は来てくれる
根上 和義 氏
寿司屋平成22年9月
和食屋を営んでいたお父様は、仕込の時間に息子を連れてきて店で遊ばせ、時間になると家に連れ帰る、という子煩悩な方だったようだ。その自然な流れで中学生の頃には、調理師になると決めていた。札幌の調理師学校に合格したあとに、札幌の寿司屋への就職話が舞い込んできた。学校へ行ってから勤める店が見つかるのか不安も覚え、今から勤めれば修行しながら給料ももらえる一石二鳥だと思い、その店に飛び込んだ。数年後、夫婦で営んでいた店は、そのご子息が後を継ぐことに。それをきっかけに移った店で出会った海苔問屋の社長に紹介いただいたのは札幌でも有名なすすきのの寿司屋だった。
そこは今まで経験したことのない職場。仕事内容はもちろん、食材、客層も違い、それに合わせた言葉使い、接客、何もかもが勉強だった。
しばらくすると支店の売上を上げるため、その店長として移る。オフィス街だったのでランチ営業を開始、2年ほどで売上が伸びてきた。ところが4年目の頃、リニューアルオープンする近隣のビルに寿司屋が入居することになり、支店は閉店を決めた。それを機に自分の店を持つことを決心する。
半年あれば何とかなると物件探しや資金繰りを始めるが、結局お店を辞めるまでには決まらなかった。現在の「すし屋の根がみ」があるのは、ビルの管理会社やオーナーがとても親身にしてくれたお蔭だと語る。
オープン当初、お客様に案内を出したものの思ったほどの来店はなく、今までお世話になっていたお店でもお客様が定年退職を迎える時期で売上が伸び悩んでいたそうだ。お客様の新陳代謝を図るため紙媒体やSNS、ネット広告などを活用。その成果か、2年目からは売上が安定してきたようだ。
当初は1,000円のランチなどもやっていたそうだが、ランチからお好みで食べたい人もいる、そのお客様は夜には来ない、と3年ほどして止めた。すると昼からゆっくり食べれる、と口コミが広がり売上が上がっていったそうだ。
今は人を雇っていないが出来れば技を伝承していきたい、そして休みが取れるようになったら、料理教室などで女性やお子様などのフードコミュニティを作っていきたいと抱負を語る。
料理にも接客にも“愛情”たっぷり注いでます。
信夫 美智子 氏
レストラン1998年4月
小さいころからお菓子や料理づくりが大好きで、小学生の時に、地元新聞社主催の料理コンテストに応募したところ入賞。その事がきっかけで、料理人にあこがれを持つようになったのだという。
高校時代、アルバイト先のハンバーガーショップのオーナーが元シェフだった事もあり、そのつてで、名古屋のレストランを紹介してもらい、料理人として働く事になったそうだ。当時、女性の料理人を雇ってくれるところは少なかったので、そのオーナーには本当に感謝しているとの事。そのお店で10年修業をしたのちに開業。
洋食を懐石のように提供するお店にしたかったのだが、コースだけでは中々厳しいので、アラカルトもやる事にしたのだそうだ。
アラカルトの「ハンバーグ」が人気。「あそこのハンバーグを食べに行こう」と言ってもらえるようになった。その後、コースにもハンバーグを取り入れて喜ばれているとの事。
コースメニューはできるだけ旬の物を取り入れて、毎月変えている。お客様に飽きられないためもあるが、自分自身のレベルアップのためにも毎月変える事を意識しているのだという。
これまで、継続してこられたのは、自分が料理を作るのが好きで、特に、人のために料理を作ってあげるのが大好きだからではないか、とシェフ。それがあったから、続けてこられたと思うし、新しいメニューも提供し続けてこられたとの事。
大事にしている事。
心を込め、美味しい料理を作っても、お客様への提供の仕方しだいで、その料理のおいしさが決まるといってもいい。なので、ホールスタッフの教育や、シェフ自身が可能な時はホールに出るなど『お客様に、いかに美味しく食べていただくか』に気を付けているとのだという。
あくまで夢だが、いつかは、全国をキッチンカーで旅をして、その土地その土地の食材を使った料理を提供していきたいとのお考えだ。
これから始められる方へ(ご自身の反省も踏まえ)
・コンセプトをまずしっかり固める
・お店の魅力を一言で表現できるキャッチフレーズを作る事(プロに依頼)
・立地調査や競合調査
・余裕のある運転資金を持つ
以上、4点をぜひやってほしい、とエールを贈る。
すべてをお客様の立場で
矢野 真和 氏
創作居酒屋2008年2月
祖父が会社を経営していたが、後継者としてその会社に入るのではなく、自分は独自の道を歩きたいと考えていたそうだ。親が働いていたので、晩御飯は子供時代から自分が担当だったが、苦ではなかったとの事。親に美味しいといってもらうと嬉しかったし、自分は結構調理が好きだと実感したという。どの道に進むのか中々決められなかったが、大学卒業間際に、自分が一番好きな料理の道に進むことを決意。あらためて専門学校に通う事にしたのだそうだ。
専門学校卒業後2年ほど有名ホテルで働き、その後居酒屋の立ち上げを2軒ほど経験し、27歳の時に地元で独立。専門学校ではフランス料理を専攻。色々勉強になったが、一般的な日本人がフランス料理を食べる頻度を考えた時、もっと日常的に楽しむジャンルのお店にしたかった。そこで、和とフレンチを融合させた、創作メニューが売りの居酒屋にしたのだという。
開業時、半年ほどは本当に厳しかった。世の中は不景気、立地もよくない。さらに告知も一切せず、知人友人にも知らせずスタート。なんとなく(根拠のない)自信はあったのだそうだ。今考えれば無謀なオープンだった。と、社長。
何とか半年持ちこたえたが、このままでは本当につぶれてしまうと思い、その後は、仕事終わりに毎日ポスティングを実施。数千枚配布して、じわじわお客様が増えたそうだ。その後、地元のフリーペーパーへの広告掲載をきっかけに、集客が加速して、軌道に乗ったのだという。
また、田舎なので、メニュー名などもわかりやすいものに何度も修正したとの事。洒落た創作料理もメニュー名はわかりやすいものにしないと全く注文してもらえなかったそうだ。
看板メニューは、野菜のせいろ蒸し。地元の美味しい野菜を売りにしている。お客様の8割を占める女性に大人気。美味しい野菜を提供してくれる契約農家さんと一軒一軒話をして、お店の考え方に共感してくれる方を増やしていったのだという。
これまで続けてこられたのは、人に恵まれたことがすべて。と、社長。スタッフもお客様も本当にいい人が集まってきてくれた。出会う人がいい人ばかり。そのおかげでここまでこられたのだと思うとの事。みんなに感謝しているそうだ。
お客様の立場ですべてを見る、という事を大事にしているのだという。例えばテーブル周りを掃除したら、実際にスタッフに席に座って確かめてもらっている。お客様の立場や目線を常に意識する事で、お客様に寄り添えるとのお考えだ。
現在、今のお店のお酒の要素をさらに強めた2号店を、岐阜市内の中心部に出店準備中との事。
これから始められる方へ、
先行き不透明な時代だが、小さくまとまらず、大きな夢を掲げてチャレンジしてほしい。と、エールを贈る。
地域に必要とされるお店、愛されるお店を目指しています!
金 龍植 氏
焼肉・ホルモン2002年4月
実家が焼肉店を経営。しかし次男という事もあり、大学卒業後、2年ほどサラリーマンを経験。その後、実家が忙しいとの事で地元に戻り、お店を手伝ったのがきっかけで、自分でもお店を立ち上げたのだそうだ。
学生のころからずっと手伝いをしていたので、お店の運営については一通りわかっていたし、仕入れのルートもあるので、思い切って決断したのだという。
1号店は郊外店だったのでスタートは苦戦。最初はほとんど寝ないで働いていた時期もあったそうだ。若かったし、飲食という仕事が好きだからできた事。と社長。
韓国の床暖房にちなんだ店名のとおり暖かいお店、人が自然に集まるお店を目指しているとの事。
独自のルートで仕入れるフレッシュなホルモンが大人気。一頭買いをしているので、希少部位が提供できるのも魅力の一つだという。
これまで続けてこられたのは、地域に必要とされるお店づくりを意識してきたからではないか、と社長。魅力あるメニューの提供や心のこもった接客はもちろん、地元の飲食コミュニティをつくったり、地域でフットサルーチームを作って活動したり、毎月1回、地域のゴミ拾いも10年ほど続けている。こうしたお店以外での取り組みも含めた、トータルな活動が地域で必要とされるお店、愛されるお店になる事だというお考えだ。
経営理念は「お客様に喜んでもらうことが自分たちの幸せになる」地域に必要とされるお店づくりをしていけば、お客様に喜ばれ、自分たちの幸せにつながる。と、社長は語る。
今後は、人の問題がますます厳しくなっていく。お客様の取り合いよりスタッフの取り合いが激しくなってくるとの事。今は、働くスタッフの環境整備に力を入れているのだという。
これから始められる方へ、
個店の経営は気合で頑張ればどうにかなるとは思うが、せっかくやるなら、地域の食文化を発展させる店づくりとか、人が育つ店づくりとか、大きな志を持って取り組んでほしい。と、エールを贈る。