蕎麦の新しい可能性で人々を明るくする、喜んで頂く。
荒川 知 氏
そば2013年開業
札幌の老舗そば店にて修行を積み、そばの健康効果で多くの方を幸せにしたいとの思いから福島県にて2002年そば店を開業した。2011年に北海道に移住し、2013年に現在のお店を開店した。このお店のコンセプトは「“カレー南蛮”や“丼物”まで楽しめる、そばファミレス」。玄そば脱皮からの石臼自家製粉と手打ちという本格そばを中心としながらも豊富に取りそろえたメニュー構成とし、幅広いお客様の多様なニーズに応えようとしているそうだ。現在の店舗を開店した時は運転資金が足りない中でのスタートとなり資金面で苦労が多く、お客様に認知されるまでに時間が掛かかり、周囲からも閉店したほうが良いと言われたそうだ。しかし「絶対にやめない!」という強い意志と信念を持って改善に取り組んだ。原価を気にするのではなく自分で選んだこだわりの原料にし本来の味を追求していったそうだ。そんな折、夕方の有名TV番組の「新そば特集」で、そば通アナウンサーのレコメンドで取材を受けたことと、食べログの評価・コメントから徐々に火が付きお客様が増えていったそうだ。経営者として大事にしていることは、料理がうまいのはもちろん、接客と雰囲気作りの総合力で、とりわけ「人」を大切に考えているとのこと。今後は、さらに腕に磨きをかける努力をしながらも他業態飲食店とのコラボや、新店舗の運営、物販なども視野に入れた活動を行っていくそうだ。これから始められる方には、「確信・自信があれば壁を突破するまでは努力し続けることが大事」とエールを贈る。
お店は種まき。根がはえるか分からないが待つことが大事
中川 学 氏
イタリア料理平成18年4月
電気工事技術者だった自分が「自分で何かやりたい」と思ったのは、やはり電気工事会社を立ち上げたお父様の起業精神を譲り受けたのかもしれない、と語る。
28歳で調理人を目指し、調理師学校に入学。卒業後、年齢的にどこも調理人として雇ってくれるところはなかった。サービスで働き、そのうち調理場へ、と思い4年働いた頃、働いていたイタリアン店のオーナーのバックアップをいただき、開業へと動き始める。
そのオーナーが店で使っているのと別に所有していた中古だが厨房機器などを、ほぼ無償で譲り受けた。
「イタリアン料理とワイン ラ ノッテルーナ」を開業させたのは、旭ヶ丘の手前という交通の便は決して良いところではない。しかしその頃、イタリアンは郊外型が人気、ステータスも高く、敢えてその場所を選んだ。メニューを考えることも、ワインを選ぶことも楽しいことだったという。オープンしてから唯一大変だったのは「人」。スタッフを使うことが一番大変だったという。
オープンして数年が経った頃、郊外型イタリアンの衰退や時勢の変化を感じ始め、余力のあるうちに移転しないと、と札幌中心部で物件を探し始めた。一軒家だった店を考えるとビルの地下など敬遠したが、今の店となる物件を見た時、割と良い物件だと直感したようだ。家賃が安いのも決め手だったと語る。
移転当初は広告費を結構使ったようだ。その雑誌会社の美食店を集めた雑誌に3年連続掲載されると、それを見たお客様が来店、そのままリピーターになった方が多いようだ。
大切にしていること。それは「ブレない」ことだという。昔から日本にあったイタリアン。そしてお客様が食べたい、というものを作る。既製品は使わず、全て手作りにこだわるのも自然が当たり前、普通に美味しい、ということがベース。多少変えることもあるが、同じものを同じように同じ味で作る、そんな普段使いされるお店が良いと語る。
世の中は甘くない、でも夢を現実にすると決めた
辻 友和 氏
パン屋平成29年1月
学生時代、パン屋さんの製造部門でアルバイトしたことがきっかけで、卒業とともに社員となった。それから20年ほど経った頃、自分の作るパンが、お客様にどこまで評価いただけるのか、美味しい、と言って頂けるのか、チャレンジしたい、と考え始めるようになった。でもパン屋を開業して失敗するかもしれない、と不安も大きかったようだ。
そんな折、リーマンショックが起こる。百年に一度の大不況と言われたが、それもまたチャンスなのかもしれない。さらに東日本大震災。日本が大変なことに直面した、でも、これからは前に進むしかない、辛いことの後には良いことがある。そんな前向きな思いが脳裏を駆け巡る。現実を考えると、二人の子供が、これから大きくなっていき、自分はチャレンジ出来る余裕がなくなる、そして40代になるとガクンと体力が落ちる、そんな先輩たちを見てきたから自分はそのピークのときにはオープンしていないと無理かもしれない、今しかないかもしれない、と。さらに一緒にパンを作っていた職場の友人が東京で修業して10年ぶりに帰札。東京での修行の話や将来の話など、大きな刺激となり、決意したようだ。
物件を探す際に一番気を付けたのはパンを焼く機材。大きな音が上に住むひとへ迷惑をかけること。平屋か2階も事務所として使える住居を探した。
そして、ついにパン屋「ヴェールクレール」をオープン。当初は宣伝も出来ず苦しかったが、少しずつお客様が来店、そしてリピーターになってきてくれた。オープン5~6か月後には借り入れも出来、資金繰りも落ち着く。その数か月後には人の繋がりでイベントに出店し、そのときに作成した“のぼり”を店頭に立てると、それがアイキャッチとなり、客足も伸びたようだ。
今は、売上を伸ばすことに追われているが、将来は夢だった片田舎でのんびりとパン屋を営むことは難しいかもしれないが、生産者の見える野菜や食材を使ったパンを作りたい。そして海外進出も視野に入れ、そのために何が出来るかを考えながら、パンを作り続ける。
普通のものが美味しい、手はかけるがかけ過ぎないこと
田口 和也 氏
小料理平成22年5月
3年周期で店を移り修行してきたが、先輩からの紹介でスナックも経営している小料理屋の女将の店で働き、約10年。小料理屋とスナックと両方を営むことが体力的に難しい、と、店を譲り受けた。
仲間や後輩が30歳前後で自分の店をだしていく中、考えていないわけではなかったが、家賃や立地、女将についているお客様、など色々考え、当初、出した答えは「NO」だった。幾度も説得され、当時は身軽な状況でもあり、結局、譲り受けることを承諾「旬菜 田ぐち」を誕生させた。
譲り受ける数年前に内装工事を行ったばかりだったので譲り受けた際に冷蔵庫やコールドテーブル、コンベクションを入れ替える程度で終わったようだ。それでも結構な金額になるが、当時、半額免除という助成金制度を受けられたようだ。
最初の1年くらいは、以前のお客様も来てくれたようだが、やはり女将のお客様。足も遠のき始めていた。その頃、広告を出稿していた広告会社の厳選の店として取り上げていただき、その記事を見たお客様が来店、未だにリピートしてくれている。
毎日、すすきの市場に仕入に通い、作り置きしないのが信念。折角、良いものを仕入れてきているのに、味が落ちてしまう。そして変に手をかけ過ぎないこと。玉子焼きやおにぎりなど普通のものが美味しい、とお客様に言っていただき、特に何もしていないので不思議に思うが、注文を受けて自分の手で作るからだと思う、と語る。
さつま揚げなどの練り物も自分で作る、丁寧に仕事をしていれば分かってくれる人もいる。以前、さんまの刺身に骨が一本も入っていない、と感激してリピートしてくれるお客様もいる、と楽しげに話す。
美容師のお母様が夕食を作る時間もなく、自分で作って食べた。食べたいものを自分で作ったほうが間違いない、という調理人を目指した小学生の頃。今は、目の前のお客様に美味しいものを、これからも変わらず美味しいものを作り続ける。
料理は雰囲気、お客様の心地よい居場所になる
川原 恭弘 氏
和食処平成19年5月
小さな頃、お腹一杯お寿司を食べたいと思ったのが調理人人生の原点。札幌の調理師専門学校を卒業後、希望するような寿司屋がなかなか見つからずにいたところ、先輩の紹介で和食店に入ることになった。ところが2年後、経営者が変わり自分が信念とする方向と異なったことから、海鮮居酒屋へ移る。
4年勤めた中でも後半の1年間は店長を務める。この頃、30代前半には店を持ちたい、と目指す道がはっきりと決まったようだ。その店では常連がつくようになり、そうするとメニュー以外のリクエストが増え、自分の料理の幅を広げたい、と強く思うようになったようだ。
そこで和食店に修行に入る。そこはメニューがないばかりでなく、食材の鮮度で調味料を変えたり、お客様の嗜好に合わせた味付けにするなど、自分が思う店だった。
そして、29歳のときに北24条に「海鮮居酒屋 北海」をオープンさせる。6年経った頃、とてもお世話になった先輩が体調を崩し、円山に構えていた店を引き受けることを決め、北24条の店をたたみ、「季節処 川原」として移る。それから5年が過ぎ、改めて自分の商売を考えた時、自分の思い描く店を持ちたいと、現在の場所に巡り合う。
個室や接待需要などに対応できる店、という想い。そして落ち着いた雰囲気、オープンキッチンで料理を作っている様をきっちり見て頂くという希望が叶った瞬間だった。
個人店だから出来ることが色々ある。市場に行って自分の目で見て納得したものを買い付ける。煮つけなどは、ご注文いただいてから煮つけ、天ぷらは揚げた順から直ぐにお出しする。料理を一番良い状態でお出しすることは本当に心がけているようだ。
調理場ではなくカウンターにしたのは、自分の目がお客様に届くため。料理は美味しいだけではなく、ほっこりと落ち着く店で食べて頂きたい。それが総合的な料理。常にお客様の気持ちになることを心掛け、自分の出来る範囲でお客様の要望に応え続ける。