常に自分がお客様だったら・・・と考えること。それが逸品力を高め続ける秘訣!
前田 藤郎 氏
まぜそば2016年10月開業
京急川崎駅から繁華街を抜けた裏路地の一角に佇む“まぜそば”の人気店がある。『麻婆まぜそば 麻ぜろう』だ。店主の前田藤郎氏がカウンター9席を日夜、一人で切り盛りする。
「逸品力のあるメニューに特化したお店を出したかったんです。」
前田氏が飲食業の道を志したのは、父親が中華料理店を経営していたことから、16歳の時にアルバイトでお店に入るようになったことがきっかけだった。ホール業務からスタートして店長を務めるまでになった。ある時、父親がキッチンスタッフの人手不足に悩み困っているのを目にして、調理場に見習いから入ることを決心したという。そこで調理の修業を続け、27歳の時に晴れて独立し中華料理店を開業した。経営に携わるのは初めてで右も左も分からない・・・、何から始めたら良いのか分からない・・・。「とにかく宣伝と集客には苦労しました。」
手探りに人のマネをしながら地道に続けた。その中でも絶対に譲れないと決めていたことがあった。“絶対に安売りはしない!”“味、商品力には自信があったので価値を知ってもらえれば、きっとリピーターになってもらえる”そう信じて続けた結果、独立して2年目を迎える頃にはお客様が付き、経営が安定するようになり、次第に人気店になっていったと言う。独立3年目には1号店のそばにラーメン店を出店するまでになった。こちらのラーメン店も口コミの評判が高く、大変な人気店だった。
ここで大きな誤算があった。一般に中華料理店は料理人を育て上げるのに時間も掛かる上、スタッフが根付かない・・・。前田氏は1号店に専念しなければならず、ラーメン店は他のスタッフに任せざるを得なくなった。結果、ラーメン店は売上が落ち込み、閉店することにした。
プロの職人を必要としない、高い調理技術を必要としない、キッチンの人手が少なくて済む、
そこで前田氏が導き出した答えが、“逸品力のメニューに特化したお店”だった。
もう一つ強力な武器があった。改良に改良を重ねてヒットメニューになった『土鍋の麻婆豆腐』だ。「看板メニューの『麻婆まぜそば』は奥さんのアイデアなんですよ!」夫婦2人で商品開発に励み、他店には無い究極の逸品メニューが完成し、2016年現在の地で新たに出発することになった。“自分がお客様だったらどう感じるか?”=客観的な目線で考えること。「逸品力は絶対に崩さない。お客様は裏切りませんから。」前田氏が大事にしていることだという。この点もお客様に支持される所以だ。
最後に将来出店をお考えの方へメッセージ
「どうして出店しようと思ったのか?その気持ちを忘れないように大切にしてください!お店を営業していくうちに答えが返ってきます。」
夢へひた向きに走り続けることの大事さを伝えてくれた。
人に熱く!笑顔で地域を盛り上げる岐阜のラーメン店
箕浦 久恵 氏
ラーメン2019年6月
前オーナーから箕浦氏が経営を引き継いで、ちょうど1年が経とうとしている。
冒頭に箕浦氏は「まさか何年か後に自分がお店を経営しているなんて」と話してくれた。ここはもともと箕浦氏が子育てを機に始めたアルバイト先であった。家庭状況に合わせてシフトを組んでくれることなど、自らの環境に合わせた様々な配慮があったことがここでアルバイト始めるきっかけとなった。
当時の店舗オーナーは現在の本家の会長。情熱的な人柄で多くの従業員を束ねている。そんなオーナーのもとでメキメキと頭角を現し、アルバイト時代にはバイトリーダーの地位まで上り詰めた。
現在、店長として日々お店の切り盛りをしている長岡氏も同様に、元アルバイトの一員である。4年のアルバイト経験の後、経営引継ぎのタイミングで社員となった。元々は服飾に興味があり、持ち前の明るさとトーク力で前職の靴の販売ではトップセールスを記録することもあった。
そんな長岡氏でも、店長を任されてからというもの、当時まだ慣れない「お店の経営」について悩み、肩を落とすことがあった。長岡氏は「経費管理にはとても気を遣うようになった」と話す。これは「いちアルバイト」から「お店の管理者」になった長岡氏ならではの大きな気づきポイントと言えるだろう。紙一枚、水一滴。そんな些細なことにも目を向け、管理することがお店を長く継続することに繋がっている。さらに人材には採用、教育共に力を注いでいる。以前は、自分より若い世代への教育に苦戦することがあったとのこと。「自分ができて当然だと思っていることができない。自分の当たり前がその人にとっての当たり前ではないことをアルバイトの教育を通じて学んだ」と話してくれた。
箕浦氏、長岡氏の人に対する熱い思いが通じてか、今では従業員同士の良好な関係がお店の大きなウリの一つになっている。
最後にこれから飲食をはじめられる方へのメッセージを伺った。
「無駄な人件費、経費を使わないなど、お金の徹底管理はマスト!そして何よりも人!お客様はもちろんのこと、従業員の笑顔がお店全体の笑顔に波及します!人を大切に!」
岐阜にある一軒のラーメン屋「麺’s」。ここから広がる笑顔の輪が今日も岐阜の地域を盛り上げている。
コンセプトは『愛情のある手抜き料理』 忙しいお母さんの目線で、終わりのない探求心が作り出すアイデア料理の数々
南方 直美 氏
料理教室1990年
名古屋市の閑静な住宅街の一角に料理教室を始めて30年。
22歳の時、結婚を機に料理教室を開講した。「料理の勉強がしたい」と話す母の知人を紹介してもらい、当初は3名の生徒が教室に足を運んだ。始めたころは小さな規模だったが、次第に南方氏の人柄、料理に対しての想いに共感する生徒が増え、口コミや紹介で、今では総勢500名以上の生徒が在籍する料理教室となった。
南方氏は、常日頃生み出すレシピや料理のコンセプトが『愛情のある手抜き料理』であることを教えてくれた。続けて、「決して本当の意味で手を抜いているわけではない。子育てをしていた頃の自分のように、日々忙しさの中にあっても、子どもたちに最大限おいしい料理を食べて欲しいと願うお母さんたちの助けになれたら」と話してくれた。
自身が、女手一つで子供を育ててきた経験。なにがなんでも自分が働かないといけない環境の中で、それでも子供たちにはしっかり愛情を伝えていきたい。試行錯誤を繰り返した末にカタチとなったものが、現在子育て真っ最中の働くお母さんの強い味方になっている。
料理教室の運営やレシピ開発にとどまらず、専門学校の講師や地域誌の料理ページ連載を担当するなど、多方面で活躍する南方氏は、新たに『オンラインでは感じられないヒトの温もりを感じられる弁当』というコンセプトを持ったテイクアウト専門店の開業を控えている。
IT技術が発達し、人と人との繋がりが希薄になってきた時代だからこそ、人の五感や、心と心の繋がりに重きを置き、お客様に持ち前の『愛情』を伝えていくようだ。
最後に、これから開業を希望する人に向けてメッセージを送ってくれた。
「どのような状況、時代になっても心と心の繋がりを大事にすること。愛情を伝えられれば、その愛情はいずれ返ってくる。仕事に情熱を持ち、初心を忘れず、驕らず、嘘がない仕事をすること」
このように話す南方氏の姿に、私もどこか母親の面影を見た。
お客さまへの感謝の気持ちを忘れずに。店格・品格・価格、「格」が付くことを大切に。
川手秀義 氏
洋菓子1981年8月操業
四季折々の変化に富み、豊かな自然に包まれた世羅台地に創業して40年。もともとは父親がはじめたパン屋だったが、自分が後を継いだときに時代の波に乗り洋菓子店としてリニューアルオープンした。
子どもの頃、親に連れられ街で食べた、生クリームの味、フルーツがのった鮮やかなケーキのことは、鮮明に覚えており、その頃から洋菓子店へ憧れがあった。
地元の高校を卒業後に東京へ。昼間は洋菓子店で働き、夜は、その当時、珍しかった製菓学校に通いながら4年半の修行をした。広島市内の洋菓子店に勤めた後、実家に戻り若干24歳で洋菓子店として創業した。
開業したときは、経営に関することは何も分からず、どんぶり勘定だったが、徐々にお店を軌道に乗せ、オーブンや冷蔵庫など必要な機材も導入していった。
当時は生クリームが珍しく多くのケーキは、日持ちするバタクリームだった。
田舎の人は、生クリームのことをよく知らず、買ったケーキをそのまま仏壇に供えることもあり、生クリームの味がおかしいと言うお客さんもいたそうだ。
地元、世羅の食材を中心に季節感溢れる洋菓子作りを心がけた。和洋折衷を融合させた「焼き大福」はクリーム、もちのようにモチモチとふわふわの新感覚スイーツだ。お土産で人気のレーズンサンドには大粒なピオーネを、レモンピールサンドには瀬戸田のレモンピールをふんだんに使い、道の駅などのお客さまにも好評だ。地元の高校とコラボレーションして生まれた、せら茶とバターケーキ「せらケーキ」は、平成3年中国五県商工会村おこし物産展にて奨励賞を受賞した。さらに平成6年中国五県商工会村おこし物産展では「世羅なしコンポート」、平成8年中国五県商工会村おこし物産展では「せらの太陽花サブレ」が最も優れた樹を受賞している。
繁盛継続の秘訣は「継続は力なり」。そして、安心・安全や美味しさを常にお客さまに伝えること、お客さまを決して裏切ることなく、やってきたこと、できたことに感謝することだと言い切る。
さらに常に大切にしている言葉に「初心忘るべからず」がある。壁にぶつかったり、道に迷ったときは、初心、つまり自分が未熟だった頃のことを思い返すというのも一つの方法だ。おごり高ぶったり、油断したりする気持ちを戒め、謙虚な気持ちで道を選ぶことができると、これから開業される方にも熱いエールを贈る。
お客さまは、きっと帰ってくる。一度きりのご縁ではなく、10年経っても通っていただけるお店に。
鶴丸 昌裕 氏
和食2012年3月
日本料理の板前になりたいという夢は漠然ではあったが、子どもの頃からずっと持っていた。実家は、佐賀にあり、お世辞にも裕福とは言えず、学生の頃はかなり荒れていた頃もあった。
高校生の頃、日本料理店の修行をするなら、「やはり京都で修行をしたい」と思い、アルバイト先の結婚式場の料理長の伝手を頼って京都の料亭を紹介してもらった。
祇園の割烹なども含め、約8年間、京都で修行を積んだ後、妻の実家がある広島でホテルの日本料理店へ、その後、広島で名店と言われる料亭の料理長にも抜擢され、そこでも約8年間、身を粉にして務め上げた。
独立は考えていなかったが、スタッフが育ち、お店が軌道に乗って行く度に達成感や満足感は少なくなっていた。これからの将来、次のステップを考えたとき「自分のお店を持つこと」が目標へと変わり、ちょうど40歳のときに開業した。
開業してすぐは不安な状態が続いたが、テレビ局へ「開業までのドキュメント企画」を持ち込み、取材で追いかけてもらったことが功を奏し、初年度から繁盛店となった。そして今では、ミシュランガイドのミシュランプレートにも選出される名店となっている。
料理は、季節ごと、その日の仕入れごとによっても異なるため、看板メニューは特にないが、釜土で炊くお米を楽しみに来店するお客さまは多い。もちろん、料理の基本となる出汁にもこだわり、かつおは東京の築地から、昆布は、大阪の問屋から最高のものを仕入れ、塩と醤油だけで味を調え、香り高く旨味溢れる出汁に仕上げている。
最高のものを仕入れる理由、常に心がけていることがある。それは「お客さまに喜んで帰っていただくこと、そして、本物を使うこと」だと言い切る。
できるだけ良い食材を使っていきたい、良いものを召し上がっていただきたい、それによって満足していただく、もちろん、料理だけでなく、接客サービスや店の雰囲気も含めて喜んでいただきたいと考えている。
そして、その努力をすることで、お客さまはきっと帰って来てくれると信じている。お店の利益も一度きりのご縁で上げるのでなく、何度か通っていただける中で少しずつ利益が出れば良いという経営者としての考えもある。
多店舗展開などには興味はないが、人が育ってきたら、彼らを主役にお店を任せたいと願っている。実際、会社として新店舗を出店し、お店を任せ、後々譲るというかたちで店舗経営も行っている。
これから開業される方へのメッセージは「とにかく働くこと」。それは最低条件、成功された方の多くは人の倍は働いている、常に努力をしている、経験を積むことで後々の困難に立ち向かえるようになると自らの経験からの熱いエールを贈る。